●● きみといっしょにできること ●●
1
トゥルルルルルル、トゥルルルルルル
――カチャッ
『はい、遠藤です。今ちょっと電話に出られません。用事のある人は、メッセージをどうぞ』
……はあ。
京都訛りが少し残る留守電メッセージを聴き終わって、俺はケータイの通話を切った。
「メッセージって言われてもねぇ」
発信履歴を見ながら、軽くため息をつく。
遠藤衣澄、遠藤衣澄、遠藤衣澄、遠藤衣澄、遠藤衣澄。あとは全部遠藤衣澄。
昼過ぎからかけ続けていたせいか、履歴はすっかりあいつの電話番号で埋まっている。
これだけ電話しても、メッセージを残しても、全然連絡が無いってのはどう考えてもおかしい。いつもだったら三回コールしたぐらいで取っていたっていうのに、今日は留守電に切り替わっても出ることはなかった。
「もう一回、やっときますかね」
発信履歴を呼び出して通話ボタンを押すと、今日何度も聴いた発信音が受話口から聞こえてきた。
トゥルルルルルル、トゥルルルルルル
トゥルルルルルル、トゥルルルルルル
――カチャッ
『はい、遠藤です。今ちょっと電話に出られません。用事のある人は、メッセージをどうぞ』
やっぱりなあ。
もう一度ため息をつきながら、俺は発信音が鳴る前に通話を切った。
自宅もケータイも数十回はかけてるってのに……あいつ、何してるんだ?
苛つくのと同時に、心に少しずつ焦りが生まれてくる。いつもだったら「しつこいなー」って言いながらも一日に三、四回は電話しているっていうのに、夕方のこの時間になっても一度も電話が来やしない。
絶対変なことは無いとは思っても、嫌な想像が頭の中を駆けめぐって止まらない。なにせあいつは身重の妊婦だ。悪阻やら味覚の変化やら、コロコロ体調が変わったのを見ると何があってもおかしくないとも思う。
『間もなく、一番線に上り列車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側に下がってお待ちください』
とにかく、行くしかないか。
ベンチから立ち上がると、冷たい空気が俺の頬をかすめていった。
もうすぐ日が暮れるんだから、せめて屋内にはいてほしいもんだが……
えーいっ、やめやめっ! ネガティブな思考、やめっ!
軽く頭を振って、頭の中の想像を振り払う。
ただ寝てるだけなのかもしれないし、ちょっと風邪ひいてるだけかもしれないし……って、風邪でもだめじゃんか! 妊娠中に体調不良なんてシャレにならん!
ああっ、もう、本当に大丈夫なのかなー。
「ふふっ、何あれ」
「変なの、頭振ったりため息ついたりして」
――あ。
後ろのほうからしてくる声に、俺は一気に現実へと引き戻された。
うっわー、恥ずかしー……
声がしてきたほうから離れるようにして、俺はすごすごとホームの端のほうへと退散した。
……ま、今はとにかくあいつのところに行くしかないか。
季節は冬。
毎度恒例の学科演奏会も終わって年も明け、俺は久方ぶりにまとまった休みを取ることが出来た。
だからといってどこか遠くへ行くというわけでもなく、のんびりと実家か衣澄の部屋で過ごしているだけ。それでも衣澄のところには行くようにしているんだけど、今日はさっきのように全然電話が繋がらない。
ケンカしたときにはこういうこともあったけど、ここ最近はそんなこともなく、むしろべったりしているというか……まあ、その、なんだ、そういう感じだったりするわけだ。
でも、だからこそ余計に不安が募る。
いくら安定期に入ってきたとはいえ、子供を身ごもっているのには変わりない。ちょっとした体調の変化でも身体に影響するってのは、お袋からも優佳さんからも耳が痛くなるほど聞いているしな。
そうなったら、選択肢は一つ。
俺は、いつもよりも早い時間にあいつの所へ行くことにしたわけ……なのだが、
2
がちゃり
どうしたもんかね。
ぎぃっ
ドアノブが全部回るし、ドアまで開いちゃうんだな、これが。
ここに来る前に電話しても出てこなかったから出かけてると考えてたんだが、この結果に思考回路が逆回転した。
どうして鍵がかかってないんだと。それに、どうしてドアが開くんだと。
そんな疑問とともに、嫌な予感が頭をよぎる。
こんなことを考えたのは、京都に行ってあいつが一人で外へ飛び出していった時以来だが、こんな最悪な状況が揃うとなると嫌でも想像しちまう。
「嘘……だろ?」
そう呟いて、背中に悪寒が走るのを感じた。
いつもだったら日替わりの表情であいつが迎えてくれるダイニングキッチンも、電気も点かずにひっそりとしたまま。
中に入って電気を点けると、テーブルの上はすっかり綺麗になっていて、シンクにも食器すらない。それどころか、水場は乾いていてここ最近使った形跡もない。
いくらなんでも、これはおかしすぎる。
頭の中で嫌な想像ばかり渦巻いて、手は震えて足取りもすっかりおぼつかなくなっていた。
でも、行かないわけにはいかない。きっとくーくー寝てるんだろうと思いつつ、寝室へ通じる引き戸を開けた。
寝室には布団が敷かれてはいたが、綺麗に整えられて乱れた形跡すらない。あいつらしいっちゃあいつらしいが、こういう時は苛立ちやら焦りやらを増幅されるだけだ。
中の電気を点けようとスイッチを押そうとしたその時、実質リビングになってる部屋へ通じる引き戸の隙間から小さく開いているのが目に入った。
「いる、のか?」
中からは、何も音はしてこない。ただ灯りがほんの少し漏れているだけだ。
まさか、昨日俺が帰った後に何かに遭ったとか……
さっき以上の不安がのしかかって、引き戸にかけた手が震えてガタンと音を出す。それでも、中から全然音はしない。
「衣澄っ?!」
いてもたってもいられなくなった俺は、引き戸を思いっきり開けた。
「……へ?」
そこには、奇妙な光景が広がっていた。
音が出ていないくせに夕方のニュース番組を流しているテレビに、床に散らばった和菓子の空き袋。転がった烏龍茶のペットボトルに、小さなテーブルには不似合いなデカイピアノ型のキーボード。
そして、物言わぬ住人。
いや、確かに何も言葉は発していない。それは確かなんだが、
「♪〜 ♪〜」
なんでコイツはフラワーロックよろしく頭を左右に振ってますかね。
これはもう奇妙と言うほか無い。規則的にただゆらゆら揺れてるだけのちまっこい女の子なんて、この世を探しても片手で足りるぐらいだろう。
「おーい、衣澄」
奇妙に思いながらも、俺は衣澄に声をかけた。
「♪〜 ♪〜」
それでも衣澄は、まるで何事も無いかのようにゆらゆら揺れるのを止めようとしない。
おいおい、無視かよと思いはしたのだが、その時髪の毛の隙間から出ている白いコードに気付いた。
そのコードは髪の毛の隙間から床に垂れて、這い上がるようにしてからキーボードに繋がっていた。
つまりはアレか? ヘッドフォンを着けたまま、ずーーーっとこのキーボードで音楽を聴いていたってわけか?
そんな結論に達して、俺の身体からは一気に力が抜けた。それと同時に、なんだかムカっとした感情が心の奥から湧き出して来て……
「ふんっ」
衣澄の両耳から、ヘッドフォンを一気に抜き取る。
「♪〜 ♪〜」
それでもこいつは、揺れるのを止めようとしない。
そりゃもう、カチンときたね。ここまで来ると。
俺は両拳に息を吐きかけると、衣澄の両こめかみに拳をセットして、
「ふぇ?」
ぐりっ!
「ふぇやぁああぁぁぁぁ?!」
一気にこねくりまわした。
「な、な、何するのよ! このバカ隆也!」
衣澄は飛び退くと、頭を抑えながら俺に怒鳴りつけた。
ああ、いつも通りの衣澄だ。それはそれでホッとした。ホッはしたけど……
「バカはどっちだ! このバカ衣澄!」
胸のイライラがどうにも収まりつかなくて、俺も怒鳴り返してしまった。
「な、何よ。隆也のくせに」
「あのな、昼から電話してるってのに一度も出ないバカにバカなんて言われたくねーよ」
「えっ?」
俺の発した言葉に、さっきまでの威勢の良さもどこへやら。ぽかんと口を開けた衣澄を見やりながら、俺はどかっと腰を下ろした。
「何かあったかと思って来てみれば、こんなわけわからんことやってやがって……今はもう七時だぞ? 午後七時。こんな時間まで連絡がつかなきゃ、心配して当然だろが」
「えっと、あの、もうそんな時間なの?」
「ほれ」
ケータイのシェルを開いて、デカデカと表示されてる時間を衣澄に見せつける。
「あ、ほんとだ……」
「ついでに、ほれ」
幾つか操作して、こいつの名前だらけの発信履歴をさらに見せつけてみる。
「こ、こんなに電話したの?」
「こんなに? じゃねーっつの」
溜息を吐きながら、俺は衣澄の額にこつんと拳を当ててみせた。
「むー」
しゅんとしたような、むくれたような表情を見せながら、衣澄は軽く俺から顔を背けた。
こんな時の衣澄にはこれ以上責めても無駄、つーか逆効果なだけ。それに、俺もホッとしたってのは確かなわけだし。
「まったく……お前だけの身体じゃないんだからな? 優佳さんも心配してるんだし、あんま俺に心配かけてくれるな」
俺は当てていた拳を開いて、そのまま衣澄の頭をそっと撫でてやった。
「……ん」
少し機嫌が持ち直したのか、衣澄は上目遣いになりながら軽く頷いた。
「さて、どうしてこんなことになったのか。それにどうしてこんなのがあるのか、おにーさんにちょっと話してみなさい」
「なにがおにーさんよ」
おどけた口調でキーボードをぽんぽんと叩いてみせると、衣澄は軽く吹き出しながら悪態をついてみせた。
うむ、これでこそいつも通りの衣澄だ。
「その……ほら、この子の胎教にもちょうどいいかなって思って。お姉ちゃんに相談したら、こういうのがちょうどいいかなって言ってたから」
少し歯切れが悪そうにしながら、衣澄がそっと自分のお腹を撫でさする。
「買って貰った、というわけか?」
「ううん、相談しただけ。さすがにお姉ちゃんにそこまでしてもらうわけにはいかないでしょ」
「まあ、そりゃそうだな」
前はお姉ちゃんべったりで頼りすぎな面があったけど、これも母親候補生になったたまものかね。
「というわけで、隆也も半額負担してね」
いいや、撤回だ、撤回。今言ったこと全部撤回してやる。
「なんでだよ」
「隆也だってパパになるんだから、こういうのは夫婦で一蓮托生でしょ」
「そりゃそうかもしれんが、事前の相談もなくそんなこと言うか?」
「相談しちゃったら、隆也をビックリさせられないじゃない!」
「あー、つまりは何だ。ビックリさせるために買ったはずが、ちょこっと触ったら自分がどっぷりハマッちまって、電話も出ずに今までずっとデモ演奏とか弄くってたわけか」
「う、うん」
「もしかしたら、昼飯とかも食べるの忘れてただろ」
「…………」
おい、顔背けんな。
「コタエナサイ」
ぷいっと背けた衣澄の顔を両手でキャッチして、強引にこっちへと向けてみる。
「そ、そーよ。悪いっ?」
俺の手の力に抵抗しつつ、衣澄は吐き捨てるように言った。
「ああ、悪い悪い。大ワルだ」
そのまま、衣澄の頬を指でつまんでぐにゅぐにゅ弄ってやる。
「や、やめてよっ!」
「心配させた罰だ、これくらいさせろっての」
「うー……」
指を離して手の平でぺちんと軽く叩くと、衣澄は不満そうに唸った。
「ところで衣澄さんや、ちょっと質問があるんだが」
「な、なによ」
「お前さんはピアノを弾いたことがあったかね」
「…………」
「…………」
俺が無言で手を伸ばすと、衣澄も無言で自分の頬を両手でガードした。
「はい、正直に言いなさい。そしたらおにーさん何もしないから」
「えっと、ちゃんと練習するつもりだったのよ。ちょっとずつでも練習したら、隆也ぐらいは弾けるようになるはずなるんだから……多分」
「おいおい」
音大生に向かってそんなのぶちまけますかあなたは。つーか、マトモに弾いたことが無いモノで対抗心を燃やすな。
「んで、練習はどうするつもりだったんだ?」
「それは……本屋で適当に練習用の楽譜を買って、それができるようになったらまた新しいの買って――」
「んな不経済的なことせんでもいい。それぐらい、俺がガキん時に使った教本でも持ってきてやるからさ」
「子供の頃の?」
なぜそんな風に不満げな顔をしますか、お前さんは。
「ああ、初めてピアノに触れるなら、それなりの教本で練習するのが一番だぞ。経験者の俺が言ってるんだからな」
「むー……」
コラ、ここまで言ってもまだ不満ですかい。
こうなったら、最後の手段を出すしかないのかね。
「なんなら、俺が教えてやろうか」
「えっ?」
「その身体でレッスンに通うのも無理だろうし、今でもピアノを弾いてる俺だったら少しは手助けもできるだろ」
まあ、人に教えたことはないがと付け加えると、衣澄はしばらく考え込むようにして、
「お、教えてもらおっかな。そのほうがお金もかからないだろうし」
また俺から顔を背けながら、軽く頷いた。
その目の輝きは、最初からそうなることを期待してやがったのか……それとも、俺との接点を増やしたかったってことなんだろうか。
どっちかはわからないけど、こうやって衣澄と一緒に出来ることが増えるのは悪いことじゃない。むしろ、俺だって嬉しいぐらいだ。
「まったく。でも、条件はつけさせてもらうからね」
「えー?」
またぶーたれる衣澄に、俺は電話を指し示してみせる。
「ほれ、留守電見てみ」
「あ」
ローボードの上にある電話の留守電ボタンがチカチカ光ってるのを見て、衣澄の表情が固まった。
「着信名は……俺と優佳さん。優佳さんに優佳さん、俺に優佳さん、俺に俺に優佳さん。うわ、優佳さんのほうが俺より多いな」
「ど、どうしよう。心配かけちゃったかな……」
そのうろたえようを俺の時にも見せて欲しかったが、まあ今はよしとしよう。
「だから電話しろっての。それが教えてやる条件だ。それと……」
「それと?」
首を傾げる衣澄に、俺はキーボードに目をやりながら、
「たまには俺にも弾かせてくれよ? せっかくここにあるってのに、独り占めされちゃ寂しいもんだぞ」
ちょっと拗ねたように言ってみせた。
「い、一緒に弾いてくれるなら」
「こらこら、俺が条件つけてるんだぞ?」
「ふーんだっ」
苦笑してる俺から体ごと背けた衣澄は、乱暴に受話器を手にしてリダイヤルを押した。
「ま、それぐらいならお安い御用ってことで」
「……うん」
さて、と……これから衣澄とこの子に、何を弾いてあげますかね。
これからのことに思いを馳せながら、俺はまたそっと頭を撫でてやった。
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