Sun shine, moon shine.
「あ〜……だめだー」
軽く伸びをしながら、僕は後ろに倒れ込んだ。
回りを見てみると、書きかけの画用紙の山。
構成は頭の中でもう出来てるのに、なかなかお話の形にすることができない。
いつものことだけど、こうやって筆が進まないのはイライラしてくる。
時計は、午前三時を指そうかというところ。
明日は休日だけど、さすがにこの時間になると眠気で頭の中がぼーっとしてきていた。
「ふぁ〜……」
宴会で慣れてきたとはいえ、三時過ぎるとつらいや……
「何か、飲んでこようかな……」
体を起こした僕は、立ち上がってドアに手をかけた。
ガチャッ
ドアを開けると、外はすっかり夜の闇に包まれていた。
まわりがビル街に囲まれているとはいえ、さすがにこの時間。鳴滝荘の廊下も、少しの常夜灯を
除いて電気は消されていた。
――梢ちゃんも、今頃は夢の中かな。
時たま見せてくる梢ちゃんの寝顔を思い浮かべると、思わず頬が緩んでくる。
びゅうっ!
「寒っ……」
そんな僕の頬に、まるで叱りつけるかのような冷たい風が吹き付ける。
吹きさらしの廊下っていうこともあるのか、足からも体からも寒さが直接伝わってきて、
眠気もだんだんと薄らいでいった。
常夜灯と月の光だけを頼りに、炊事場へゆっくりと歩いていく。
他の部屋もすっかり静まりかえっていて、聞こえてくるのは風の音と僕の足音だけ。
木造特有の軋むような音が、なんだか懐かしく感じて心地いい。
「や、白鳥クン」
そんな中聞こえてきた、明るい女の人の声。
「あれ、桃乃さん?」
そこに顔を向けると、縁側に座って月明かりを浴びた桃乃さんが、僕のことを見上げていた。
「どうしたのよ、こんな時間に。梢ちゃんのところにでも行くつもり?」
「ち、違いますって。今夜は徹夜しようかなって思って、飲み物を取りに来ただけです」
「あはは、わかってるわよ。白鳥クンはそういうところが律儀だからね」
「まったくもう……」
いつもと同じ、桃乃さんのからかい。
だけど、月明かりに照らされた桃乃さんの表情は、どこか穏やかそうに見えた。
「で、桃乃さんはどうしたんですか? こんな時間まで」
「決まってるでしょ〜? 月見酒よ。よかったら、白鳥クンも飲む?」
「って、こんな時間まで飲んでたんですか」
よく見てみると、桃乃さんの傍らには日本酒の一升瓶がドンと置いてあった。
「そうそう、白鳥クンの眠気にもよく効くわよ〜」
「それじゃ寝ちゃうじゃないですか」
「学生は体が資本! 早く寝て早く起きるのが一番だって」
「……桃乃さん、自分で言ってておかしいと思いませんか?」
「はてさて、なんのことやら」
こんなやりとりも、一年近くここにいてすっかり慣れたもの。
それでも、やっぱり僕は桃乃さんに手玉に取られているわけで……
「ま、いいわ。烏龍茶でも何でもいいからさ。持ってきて、ちょっとここに座りなよ」
「えっ?」
「どうせ、課題がなかなか進まなくて気分転換しに来たんでしょ?
ちょっとぐらい、おねーさんに付き合いなさい」
悪戯っぽい笑顔から、また穏やかな表情に戻る桃乃さん。
「は、はあ」
――いつもの、酒に豪快に酔った桃乃さんとは違う。
「よろしい。んじゃ、待ってるからさ」
「わかりました……」
言われたことが図星だったのもあるけど……それ以上に、桃乃さんの態度に呆気にとられた僕は、
素直に頷いていた。
冷蔵庫から烏龍茶を取り出した僕が廊下に戻ると、桃乃さんは相変わらず酒を呑んでいた。
だけど、いつもと何かが違う。
ぐいっと飲み干すんじゃなくて……こう、ちびりちびりと舐めるというか……
普段の桃乃さんからは考えられない、静かな飲み方だった。
「おっ、来たわね。ほらほら、こっちにおいで」
「し、失礼します」
桃乃さんの横に座った僕は、烏龍茶を開けて少し口にした。
程良く冷えたそれは、冷たい風と一緒に僕の眠気を覚ましていく。
桃乃さんはというと、いつもの半纏を羽織っているのとお酒を飲んでいるっていうこともあって、
そんなに寒くはなさそうだった。
そのまま、僕たちの間で沈黙が続く。
僕は、烏龍茶を少しずつ飲んで。
桃乃さんは、ちびちびとお酒を猪口で舐めて。
吐く息はまだ白かったけど、前ほど厳しい寒さじゃなくて……
だけど、空に光る星や月は、初めてここに来た頃よりも綺麗にはっきりと輝いている。
――確実に、時間は過ぎているんだ。
あまりにも穏やかな時間の中で感じられたそれが、改めてここに来てからの時の流れを
思い知らせてくれた。
「白鳥クン、さ」
どのくらい時間が経った頃だろう。
「ここに来てから、もう一年ぐらいになるっけ」
不意に、桃乃さんが静かにそう呟いた。
「そうですね。あともう少しです」
「そっかー……早いね、一年は」
「早かったですね」
ふと、しみじみとした口調でそう呟く。
「いろんなコトがあったからねー……白鳥クンが来てからはさ」
「あ、あはは……」
「ああ、からかって言ってるわけじゃないのよ? 本当に、今まで以上にいろいろあったんだから」
「そうなんですか?」
「うん」
そう頷いて、桃乃さんがお猪口を一口舐める。
「去年までは……騒がしかっただけ、かな」
「騒がしかっただけ?」
「梢ちゃんの人格がコロコロ変わって、珠ちゃんがそれを補って、あたしはそれに乗っかって騒いで」
澄んだ星空を見上げながらの一言は、どこか懐かしそうで……
「沙夜ちゃんに朝美ちゃんが内職でドタバタして、バラさんが静かに見守ってくれてて」
ほんの少し、寂しそうに聞こえた。
「だけどね、白鳥クンが来てから……それが、ちょっとずつ変わっていったんだ」
「えっ?」
一転しての明るい口調に、僕は少したじろいだ。
「最初はさ、今までここに来た人と同じ、梢ちゃんの多重人格を見て逃げちゃうのかなって
思ってたのよ。ずっと会ってなかった梢ちゃんのはとこだっていうんだから、尚更ね。
でも、白鳥クンは梢ちゃんのことをしっかり受け止めて、ここの生活にも馴染んで……
ホント、ビックリしたわよ。見た目と違って、案外しっかりしてるじゃないって」
「逃げちゃうって、以前にもここに住もうとした人がいるんですか?」
「まあ、ここはアパートだからね。一応年中入居者を募集してるんだけど、早くて一日、
遅くても一週間ぐらいで梢ちゃんの多重人格が発覚して、ジ・エンド……家賃を貰う前だから、
お互い損害とかはなかったんだけどさ」
「そんなことがあったんですか……」
「梢ちゃんも困ってたわよ。住むって言ってた人が、目が覚めたら突然いなくなるんだもの。
その度にあたしたちがいろいろフォローをしたりして、ああ、今回もかなって思ってたの」
息を継ぐようにして、またお酒をひと舐めする桃乃さん。
手にしていたお猪口のお酒には、映った月が揺らめいている。
「だけどね」
そのお猪口をそっと縁側に置くと、
「白鳥クンは、梢ちゃんと……」
桃乃さんは僕に向き直って、
「あたしたちと、一緒にいてくれた」
穏やかな微笑みを、ゆっくりと浮かべた。
「桃乃さん……」
「白鳥クンさ、覚えてる? あたしとデートしたときのこと」
「えっ? あっ、はっ、はい」
忘れることなんてできないよ……桃乃さんが自分のことをいろいろと話してくれたことは。
「あの時はいろいろ不安だったけど、白鳥クンが付き合ってくれたことで、アイツへの想いを再確認できた。
やっぱり、あたしにはアイツがいないとダメなんだなってね。
それと同じように、白鳥クンと接していくことで、みんなが変わっていった」
「みんなって、鳴滝荘の?」
「もう、それ以外に誰がいるってのよ」
苦笑しながら、桃乃さんが僕のことを小突く。
「ちょっとギクシャクしていた沙夜ちゃんと朝美ちゃんの関係がしっかりして、
あれだけ梢ちゃんのことに関しては頑なだった珠ちゃんが、白鳥クンに心を開いて、
まわりを気遣うことで精いっぱいだった梢ちゃんが、白鳥クンの隣で幸せそうに微笑むようになった」
言葉を進めていくにつれ、桃乃さんの苦笑が柔らかな笑みに変わっていく。
「それに、早紀ちゃんや棗ちゃん、魚子ちゃんや千百合ちゃんも、白鳥クンと恋人同士に
なれてとっても幸せそうだしね」
「あ、あははは」
それは実感してはいるんたけど、こう面と向かって言われると照れるなぁ……
「白鳥クンさ、キミが描いた『ハル』って絵本があるでしょ?」
「はい、ありますけど」
「あの絵本に出てきた『それ』っているじゃない。
あたしたちにとって……少なくとも、あたしにとっては『それ』って、白鳥クンなんだよ」
「え、えっ……ええっ?!」
僕が『それ』?!
「あたしたちの欠けた心を満たしてくれて、騒がしいけど楽しい毎日を過ごすことができて。
あの絵本を読んだとき、すうっと白鳥クンのことが思い浮かんだの」
「そ、そんな、僕は、あれは!」
あれは、梢ちゃんをモデルにしたんであって、僕じゃないのに!
「まあ、白鳥クンは気付かないだろうけど……
でもね、白鳥クンがあたしの心にいろんなコトを与えてくれてるのは、確かなんだよ」
「それは、僕も一緒ですよ。
梢ちゃんや桃乃さんや珠実ちゃん、沙夜子さんに朝美ちゃん、灰原さんと一緒に楽しい
日々を送れて……こんなに賑やかな生活、今までしたことありませんでしたから」
「そっか……ありがと。
そう白鳥クンが思ってくれてるように、あたしも白鳥クンのことをそう思ってる。
それに、きっと梢ちゃんはそれ以上に思ってくれてるはずよ」
「そうだと、僕も嬉しいです」
「大丈夫よ、あたしが保証する」
――ああ、そうか。
「あんなに幸せそうな笑顔を、あたしたちに見せてくれるんだもの」
桃乃さんは『お姉さん』なのかもしれない。
いつもはしゃいでいるだけに見えて、実際は梢ちゃんのことをしっかり見ている。
いや……梢ちゃんだけじゃなく、鳴滝荘にいるみんなのことをか。
きっと、僕や梢ちゃん、珠実ちゃんや朝美ちゃんの『お姉さん』なんだ。
「だから、約束してくれないかな」
「約束、ですか?」
「うん」
静かに呟く桃乃さんの表情が、ゆっくりと引き締まっていく。
「絶対……絶対、梢ちゃんの前からいなくならないで」
「えっ?」
「あの絵本の『それ』は、最後にいなくなって若者に出会いの素晴らしさを教えてくれた。
でも、キミがいなくなったら……残るのは、梢ちゃんにとっての『絶望』だけ。
もしも、白鳥クンがいなくなって梢ちゃんの心が壊れたりしたら……
あたしは、死ぬまで白鳥クンのことを許さない」
「桃乃……さん……」
「白鳥クンが梢ちゃんとずっといようと思ってるのはわかるよ。これは、梢ちゃんの恋人に
なった白鳥クンへの確認と……」
桃乃さんの一言一言が、心の中に染み渡っていく。
それは、とても純粋で……
「あたしの、白鳥クンへの一生のお願い」
強く、真剣な僕への願い。
それに、僕は応えないといけない。
「……もちろんです。
僕は梢ちゃんを置いてどこかへ消えたりしませんし、この命が終わるまで、絶対添い遂げます」
今の僕は、そう心から誓って言える。
『怯えて……いるんです』
『……一緒にいるのが幸せなほど……好きになればなるほど……
いつかやってくる、別れの日に……』
触れれば壊れてしまいそうな梢ちゃんの呟きは、はっきりと覚えている。
――今なら、思えるんだ。
あの時、僕はきっと深く考えてなかったんじゃなくて、梢ちゃんを支えてあげたくて、
心の奥で決めていた言葉を告げたんだって。
「梢ちゃんだけじゃありません。
早紀ちゃんや魚子ちゃん、棗ちゃんに千百合ちゃんとも、僕は一緒に歩んでいきたい。
もちろん、鳴滝荘のみんなとも一緒に」
だからこそ、僕も願う。
「もし、誰かと別れる時が来たとしても、笑顔で見送ってあげたいです。
そして、誰かと新しく出会ったときは、笑顔で迎えてあげたい。
その時には、梢ちゃんのそばで彼女を支えてあげようって……そう、決めました」
自分が、そうあることを。
風が中庭を吹き抜け、木々のざわめきがあたりに響き渡る。
桃乃さんは僕の顔を真剣に見つめたまま、微動だにしない。
そして、僕も桃乃さんから目を逸らさずに見つめ続けていた。
「……白鳥クンらしいわ」
風に乱れた髪を直しながら、桃乃さんが表情を和らげる。
「もしもアイツの前にキミと会ってたら、やっぱり惚れちゃってたかもね」
「も、桃乃さん?!」
「にゃはは、冗談冗談。それでもアイツに惚れてたかもしれないしねー」
「は、はあ……」
突然いつもの桃乃さんに戻って呆気にとられたけど、こっちがやっぱり桃乃さんらしいや。
「梢ちゃんも果報者だよ。こんないい恋人が現れたんだもの。
やっぱり、あの子は幸せにならなきゃダメなんだ」
「幸せに……そうですね」
しみじみとした言葉に、僕も頷く。
まだ、梢ちゃんのことを僕は全部知っているわけじゃない。
ずっと会ってなかった間のことも、どうして梢ちゃんが解離性同一性障害になったのかも。
だけど、少しずつそれを知って、解っていってあげたい。
みんなと一緒に、幸せになるために。
「白鳥クン」
「なんですか?」
お猪口をまた手にした桃乃さんは、ゆっくりとお酒をそれに満たしていった。
「はい、これ」
「えっ?」
「誓いの杯……ってとこかな」
そう言いながら、桃乃さんが満杯のお猪口を僕に差し出してくる。
「で、でも、これって、さっきまで桃乃さんが飲んで……」
「あー、気にしない気にしない。おねーさんからのご褒美と思いなさい」
いつものようなからかいはない、優しい言葉。
「は……はい」
それを聞いた僕は、素直にそれを受けることにした。
手にしたお猪口にのお酒は、細く欠けた月が浮かんでいる。
その煌めきに見とれていたけど、意を決してそれを口にした。
「んっ」
喉から、胃へと染み渡る辛味。
飲まされているのとは違った、じわりとくるその感触はどこか心地よかった。
「それじゃ、返杯ね」
「はい」
言われて、空になったお猪口を桃乃さんに差し出す。
それを受け取ったのを見て、僕は瓶を手にしてお酒を少しずつ注いだ。
「……ん、このくらい」
お猪口に注がれたお酒に、また月の煌めきが映り込む。
「あたしも、ここにいる限りは白鳥クンの……それに、梢ちゃんの幸せを手伝う。
白鳥クンと違って、あたしは永遠にここにいるっていう保証はできない」
そう……桃乃さんには、遠く離れた恋人がいる。
僕たちのことを祝福してくれているけど、手紙を待ち望んだりしている姿を見ると、
やっぱり寂しいんだと思う。だから、いつかはここを離れる日がくるかもしれない。
「だけど、ここに……鳴滝荘に住んでいるうちは、どんなことでもサポートするから。
白鳥クンと梢ちゃんの……住人みんなの幸せを、ここで見守ってあげる」
「それが、あたしの誓い」
決然の思いを乗せた言葉を告げ、桃乃さんもお猪口を口にした。
鳴滝荘の太陽みたいな存在の、桃乃さん。
いつも楽しくて、騒がしくて、ちょっと困ることもあるけど……僕たちのことを、
月のようにいつも優しく見守ってくれている。
もしも神様がいるとしたら、感謝したい。
鳴滝荘に、桃乃さんを呼んでくれてありがとうって。
そして……
僕たちの『姉』であってくれて、ありがとうって。
「ぷはっ」
口にしてからしばらくして、桃乃さんは一気に息を吐いた。
その顔は、とても清々しい笑顔で……
「約束、だね」
「はい、約束です」
僕も、笑顔で桃乃さんに応えた。
あたりが、再び静寂に包まれる。
聞こえるのは、遠く夜空を渡る風の音と、わずかな木々のざわめき。
少しずつ白み始めた空には、まだ輝きを失わない欠けた月。
そんな空を、僕たちは何も言わずに見上げている。
誓いの夜が、もうすぐ明けようとしていた。
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