プリンセス・ブライド
中編
「みなみちゃん、おはよう」
「お、おはよう……」
次の日の、朝の教室。
ゆたかがいつも通りに話しかけてきただけなのに、心臓がどくんと跳ね上がる。
「? どうしたの?」
「う、ううん……なんでもない」
「そう? だったらいいんだけど」
小首を傾げて、わたしの顔をのぞき込むゆたか。
「そういえば、昨日古典の先生が出してた宿題なんだけど――」
好きだとわかった瞬間に、その一つ一つの仕草がかわいくてたまらなくなっていく。
「……みなみちゃん?」
「っ?!」
「さっきからぼーっとしてるね。顔が真っ赤だよ?」
「う、ううん、大丈夫……」
「本当? 無理しちゃだめだよ?」
「……わかってる。続けて」
いつもとは、全く反対の立場。
こんな些細なやりとりもこそばゆくて気持ちいいけど、心が追いついていかない。
「昨日の宿題なんだけどね、ここの現代語訳がちゃんと出来なくて」
「……どこ?」
なんとか心を落ち着かせようとしているうちに、ゆたかが向かいの席に座る。
「えっとね、ここ。どうしても片言な訳になっちゃって……」
「……ここは、変格活用をするべきところ」
「あ、そっか」
「前後の語感をしっかり捉えていけば、ちゃんと訳が出来るはず……がんばって」
「うんっ。ありがとう、みなみちゃん」
「……ど、どういたしまして」
『ありがとう』という言葉が、心にしみていく。
昨日までとはまた違ったその感覚に、なんだか目が潤みそうになった。
「じゃあ、あとは自分でやってみるね」
「……うん」
私がうなずくと、ゆたかは笑顔で手を振って自分の席へと戻っていった。
好きな人にそう言われる気持ちって、こういう感じなのかな。
とっても幸せで、ふわふわして……
「みなみちゃん、ごはん食べよ?」
いつものように、お弁当を持って席にやってくるゆたか。
小さなお弁当箱が、ゆたかにとっても似合っていてかわいらしい。
「体育祭のお弁当? 学食がお休みみたいだけど、お姉ちゃんも忙しそうだから……作ろうかな」
田村さんの問いに、本気で考え込むゆたか。
指に頬を添える姿が、どことなくゆたからしい。
「来週は暗誦かあ。ちゃんと覚えないと」
古典の授業のあと、お礼に言いに来たゆたかが拳をつくって意気込む。
小さい身体で頑張る姿は、見ているこっちまで微笑ましい。
いつも見ていたはずの姿がどれも新鮮で、どんどん「好き」が深まっていく。
だけど、それをゆたかに伝えることはできない。
私もゆたかも、同じ性別だから。
私が好きだと言っても、ゆたかに迷惑をかけるだけ。そう思うだけで、幸せだった心が後悔に蝕まれていく。
――好きだなんて、気付かなくてもよかったのに。
気持ちが浮かんだり沈んだりしているうちに、いつの間にか放課後を迎えていた。
思えば、ゆたかの姿ばっかり追っていた気がする。落ち込むとわかっていても、見ていたくなって……
そんなことを考えてる間に、教室にいる人はまばらになっていた。
「みなみちゃん、今日はどうするの?」
いつものように、ゆたかが私のところへやってくる。
「今日は……スウェーデンリレーの練習があるから、居残り」
「そっか。それじゃあ、いっしょに帰れないね」
「あ……」
何気ない、ゆたかの言葉。
だけど、それは今の私にとってはとてつもない誘惑だった。
「……みなみちゃん、本当に大丈夫なの?」
「えっ……」
「なんだか、無理してるみたいだよ」
心配そうに、ゆたかが私の顔をのぞきこんでくる。
そして、手のひらを私の額に乗せて……
「うーん、熱は無いみたいだね」
さらりとした手から、ひんやりとしたゆたかの温度が伝わってくる。
それとても気持ちよくて……頭の中に、しびれのように広がっていく。
ダメだ、これ以上されたら……
「ひゃあっ!」
パシッ!
そう思った瞬間、教室に乾いた音が響いた。
「み……みなみちゃん……?」
「あっ……」
呆然とした、ゆたかの表情。
少し赤く染まった、その手のひら。
それから……いつの間にか動いていた、私の手。
「……ご、ごめんね。突然おでこを触っちゃったから、びっくりしちゃったんだよね?」
無理矢理笑顔を作って、私に向けるゆたか。
だけど、その目尻には涙が浮かんでいて……
「いや、その……」
もしかして、私は……ゆたかの手を、振り払ってしまった?
そう認識した瞬間、心の中が罪悪感で染まっていく。
「みなみちゃん、ごめんなさい……私、今日は帰るね」
「あっ、ゆたか!」
いつもは出すことのない、大きな声。
だけど、ゆたかはぱたぱたと教室から出て行ってしまった。
「い、岩崎さん、どうしたの?」
「…………」
まわりからの言葉にも答えられないまま……私は、ずっと固まっていた。
ゆたかが出て行ったドアを、じっと見つめることしかできずに。
私は……ゆたかを、傷つけてしまったんだ。
「岩崎さんっ、ねえ、岩崎さんっ!」
その声で、私は身体が揺らされていることに気付いた。
「……田村……さん?」
目の前にいたのは、心配そうな表情の田村さん。
「どうしたの? 突然、小早川さんの手を振り払ったりして」
「……わからない」
「えっ?」
「どうすればいいか……わからない」
今頃になって、手に払いのけた感覚がよみがえってきた。
やっぱり、私はとんでもないことをしてしまったんだ……
頭を抱える私の向かい側で、椅子を引きずる音が聞こえる。
「小早川さんと、何かあったの?」
「ゆたかは悪くないっ!」
「岩崎さん……」
「私は、ただ……ゆたかに触られて、頭の中がぐるぐるして……わけが、わからなくなって」
「それで、小早川さんの手を振り払っちゃったの?」
田村さんの問いかけに、私は頭を抱えたまま頷いた。
「……ねえ、岩崎さん」
「…………」
「クラスのみんなはもういないから、聞いてもいいかな?」
「……なに?」
いつになく、優しい田村さんの声。
「ケンカしたわけじゃないんだよね?」
その言葉に、小さく頷く。
ケンカなんて全然していない。悪いのは、全部私。
「なにか、気分でも悪かったの?」
今度は、首を横に振る。
ただ、気分が昂ぶっただけ。むしろ、気持ちよかったと思う。
「突然のことで、驚いたの?」
少し考えて……小さく頷く。
好きな子から突然おでこを触られて、とてもびっくりしたから。
「ねえ、気分を悪くしたらゴメンなんだけど……」
耳元で、突然田村さんのささやき声が聞こえてくる。
「もしかして……岩崎さんは、小早川さんのことが好きなの?」
優しく問いかける声に、思わずまた頷いてしまいそうになった。
「……わからない」
何もかもを吐き出したくなる衝動を抑えて、ただそれだけを呟く。
「最近、岩崎さんが小早川さんを見る目がちょっと変わったかなーと思ったんだけど……そっか、気のせいならいいんだよ」
どうして、そんなことまでわかるんだろう。
私たちと、よくいっしょにいたから? それとも、それが女の子の「カン」?
まるで、何もかもを見透かされてるみたい……
「でも、叩いちゃったのは確かだよね。明日、ちゃんと小早川さんに謝らないとダメだよ?」
「……わかってる」
ゆたかを傷つけたくなんてなかった。
だけど、私の迷いがゆたかの体と心を傷つけて……
「でも……」
「でも?」
「ゆたかは……許してくれるのかな」
私のひ弱な心が、声を震わせた。
「大丈夫だよ。小早川さんと岩崎さんはとっても仲良しなんだから。でもね、ちゃんと伝えたいことがあったら伝えないとダメだよ」
「…………」
「岩崎さんは、あまり小早川さんに言うことはないよね。でも、伝えたいことはいっぱいあるんでしょ?」
「……うん」
「だったら、ちゃんと言わないと。でも、もし自分で言っちゃいけないと判断したことだったら……それは、岩崎さんの判断に任せるけどね」
「田村さん……」
顔を上げると、田村さんは優しく微笑みながら私の顔をのぞきこんだ。
「とりあえず、まずは仲直り! 明日会ったら、ちゃんと言おう?」
「……うん」
まずは、ちゃんとゆたかに謝って……今は、私の気持ちは心の奥底にしまっておこう。
ゆたかと離れるのだけは、絶対に嫌だから。
「田村さん……ありがとう」
「い、いやぁ」
ぺこりと頭を下げると、田村さんはぱたぱたと手を振った。
「やっぱり、仲良しさんは仲良しさんのままじゃないと」
いつも、私たちの側にいる田村さん。
もしかしたら、私たちのことを見守っていてくれたのかな……早く仲直りして、安心させてあげないと。
だけど……
次の日、ゆたかが学校に来ることはなかった。
* * *
バトンゾーンに、前のランナーが近づいてくる。
それを確認して、スタートラインから一歩、二歩と軽く走り出す。
あとは、バトンを受け取って、スピードを――
カランッ
「あっ……」
と思っていた矢先、そのバトンが私の手からこぼれていった。
「あっちゃー、また失敗だね」
「す……すいません」
急いで立ち止まって、そのバトンを取りに行く。
「んにゃ、あんまり気にしない気にしない。短距離は得意でも、バトンリレーは苦手って人は多いからさ」
C組・D組連合のリーダー、日下部先輩がにぎやかに笑いながら近づいてきた。
「まあ、慣れだよ、慣れ。ただ、ぼんやりするのはダメだかんね」
「……本当に、すいませんでした」
昨日は、田村さんとのやりとりの後ですぐには立ち直れなくて、ポロポロバトンを堕としていた。今日もゆたかに会えなくて不安だけど……今は、しっかりしないと。
「いいのいいの。それじゃ、もう一本行ってみよっか」
「はい」
私が頷くと、日下部先輩は足早に来た道を走っていった。
元陸上部のエースだけあって、本当に速い。先生たちが、アンカーの400mを安心して任せるのもよくわかる。
「いくよーっ!」
そう言って、日下部先輩がコーナーの途中から走り出す。
大きなストライドで駆けてきた先輩は、あっという間にバトンゾーンに近づいてきた。
先輩がリレーゾーンに入ったら、軽く走り出して……
「今だよっ!」
「っ!」
今度は、落とさずにしっかり受け取れた。
「ストップ! そうそう、今の感じだよー」
反転して戻ると、日下部先輩がうんうんと頷きながら出迎えてくれた。
「あとは受け渡しだけど、これはしっかり手を伸ばせば大丈夫だから。今はそれよりも、受け取るときのタイミングをしっかり掴んだ方がいいね」
「……わかりました、なんとなく」
「うんっ、その意気その意気。それじゃ、一旦休憩してからみんなで練習してみよっか」
「……はいっ」
「じゃあ、二十分休憩ねー! 時間になったら、またここに集合ってことでー!」
「「はいっ!」」
日下部先輩の呼びかけに、他の先輩たちが元気よく返事する。
私も頷いて、バトンゾーンの内側に入って腰を下ろした。
「ふぅ……」
息をつきながら、まわりを見回してみる。
広い校庭では、いろんな生徒がいろんな練習をしていた。
私みたいにリレーの練習をしていたり、クラス全員が集まって棒倒しの練習をしていたり、男子の先輩たちが組体操の練習をしていたり……どこも、活気にあふれている。
だけど、ここには大切な人がいない。
「ゆたか……」
目を閉じながら、今朝からの出来事を思い出す。
先生からはゆたかの欠席を告げられて、公衆電話から電話をしてみても、泉先輩のお父様が「熱を出して、今はぐっすり寝てるから」と言っていた。
昨日のことで、落ち込んでしまったのかもしれない。だけど、ちゃんとゆたかと会って謝らないと。
練習が終わったら、泉先輩の家に行ってみようかな。でも、ゆたかの調子を悪くしてもいけないし……本当に、どうしよう。
昨日までのように、また頭の中で思考がぐるぐるとループする。
全然まとまらないまま、気分を変えようと目を開けると……
「やあ、みなみちゃん」
「……泉先輩?」
その泉先輩が、私の顔をのぞきこんでいた。
「隣、いいかな?」
「……ええ、どうぞ」
「んじゃ、ちょっくら失礼してっと」
そう言って、私の隣に腰を下ろす泉先輩。
体操着姿で、長い髪をポニーテールでまとめているのは初めて見るかもしれない。
「みなみちゃんも、スウェーデンリレーの練習?」
「……はい、そうですけど……先輩も?」
「春のタイムで引っかかっちゃってさー、無理矢理黒井先生に連行されちゃったよ。まあ、後でネトゲで色々助けてもらうって契約したからいーけど」
「そうなんですか……」
確かに、ゆたかも泉先輩は走るのが速いって言ってたような気がする。ということは、先輩はA組・B組連合のチームだから……私たちのライバルになるんだ。
「みなみちゃんは、何m走るの?」
「……まだ、これから決めるんです」
「そっか」
それっきり、泉先輩は口を閉ざした。
聞こえてくるのは、まわりの喧噪だけ。
「……あの、先輩」
「ゆーちゃんのこと、聞きたいの?」
「っ?!」
先のことを言い当てられて、心臓がドクンと高鳴る。
やっぱり、聞きたいことがわかったのかな……
「……はい」
先輩から話を切り出してくれたということで、私は素直に頷いた。
「ゆーちゃんだったら、今日は家でぐっすり寝てるよ」
「そう……ですか」
やっぱり、具合が悪かったんだ。
私が……私が、ゆたかを追いつめてしまったのかな。
「ちょっと熱が出ただけだから、何日かしたら学校には来れると思う」
「……わかりました」
「ただ、さ」
「……?」
突然、泉先輩の声のトーンが変わる。
「昨日、ゆーちゃんが帰ってきたときに目が赤かったんだけど」
「えっ……」
慌てて先輩のほうに振り向くと……
「何か……あったの?」
いつになく真面目な表情で、先輩が私の顔を見据えていた。
「あの、その……」
「ゆーちゃんは何でもないって言ってたけど、無理して笑ってた。ごはんも食べなくて、ずっと部屋にいるままなんだよ」
「えっ……?」
泉先輩の、切実な声。
まるで私を責めているような気もしたけど、聞かれているということは……ゆたかは、昨日のことをしゃべっていない?
言わないでいたのか、それとも……それほど、しゃべりたくなかった?
「ただ、みなみちゃんの名前を出したら、妙に動揺してたから」
「……っ!」
「もしかしたら、みなみちゃんなら知ってるのかなって思ったけど……何か、あったの?」
それは、心から絞り出すような切実な声。
泉先輩が、ゆたかのことを心配しているという証……
「……――めんなさい」
「うん?」
「ごめんなさいっ!」
私は泉先輩に向き直って、思いっきり頭を下げた。
「昨日……ゆたかにおでこを触られて……突然のことだったから、反射的にはねのけてしまって……私、ゆたかにそんなことしたことなかったから……ゆたか、ショックを受けてたみたいで……ごめんなさい……私が、ゆたかを……ゆたかのことを、傷つけてしまいました……」
細切れになりながら、なんとか言葉を紡ぎ出す。
先輩には、嘘をつきたくない。大切な子の……傷つけてしまったゆたかの、お姉さん代わりなんだから。
そのまま、あたりに沈黙が流れる。
怒っているのか、それとも呆れているのか……頭を下げているから、先輩のそんな表情も伺えない。罵倒でも、侮蔑でも何でも受ける。私は、それだけのことをしてしまったんだから。
「……なーんだ、そんなことか」
あっけらかんとした、泉先輩の声。
「えっ?」
顔を上げながら、私は間抜けな声を出してしまった。
「私もさ、慣れるまでかがみによくやられたもんだよ。頭ひっぱたかれたり、ほっぺたぎゅーぎゅー引っ張られたり。まだまだスキンシップが足りないってことなんだろーね。慣れればなんとかなるなる!」
「……はあ」
表情を緩めて、いつも通りにネコのような口でしゃべりだす泉先輩。
これって、怒ってないっていうこと……?
「まあ、ゆーちゃんもショックを受けただけと思うから。あんまり心配しないでいいよ。……ただ、さ」
そう思った瞬間、また先輩の表情が変わる。
「いつものみなみちゃんだったら、そんなことしないよね」
私の目を射抜くかのような、鋭い視線。
「ゆーちゃんを傷つけたりは、絶対しなかったよね」
「あ……」
許してはいない。
泉先輩は、まだ私のことを怒っているんだ……
「みなみちゃんは、ゆーちゃんのことを友達って思ってる?」
「……はい」
自信をもって、頷ける。
高校に入ってから……ううん、高校に入る前から出会った、かけがえのない友達。
「それじゃあ、ゆーちゃんのことが大切?」
「……もちろん、です」
これも、自信を持って頷く。
ゆたかの苦しむ表情は見たくないし、いつも笑顔でいてほしいから。
「ゆーちゃんといっしょにいて、楽しい?」
「……楽しいです」
いつも、私になついてくるゆたか。
いろんなところに行って、遊びに来てくれたりして、そんな日々が楽しかった。
「それじゃあ」
私がまた頷くと、先輩は言葉を句切って、
「ゆーちゃんのことが、好き?」
「……はい」
私は、その言葉に深く頷いた。
ゆたかのことが、大好きだから。
ゆたかのことが……だいす……き……
「っ?!?!」
い……言ってしまった?! ヒミツのことなのに!
大好きなのは確かだけど、心の中にしまっておかないといけないのに!
「みなみちゃん、素直になったほうがいいよ」
「えっ……?」
「ゆーちゃんのことが好きなのを隠していて、ゆーちゃんのことを傷つけちゃったんでしょ?」
「そ、それは……はい……」
私は覚悟を決めて、深く頷いた。
泉先輩は、何もかもお見通しなんだろう。
「素直になれないまま悶々としていたら、またゆーちゃんのことを傷つけるかもしれないんだよ?」
「あっ……」
言われてみれば、そうだ。
またゆたかに触れられて、舞い上がって、パニックになって……また、手を出してしまって。恐ろしいことだけど、先輩が言うとおりゆたかを傷つけてしまうかもしれない。
「そんなことをまたしたら……少なくとも、私は絶対に許さない。私はゆーちゃんの姉代わりだけど、大切な妹には変わりないんだから」
じっと私を見つめる、泉先輩の真摯な瞳。
「たとえみなみちゃんでも、ゆーちゃんを傷つけたら絶対に許さない」
それが、私の心をじりじりとえぐっていく。
「想いを捨てるか、それとも伝えるか……そうでもしないと、またこういうことが起きるかもしれない。
みなみちゃんは、どうしたいの?」
「え、えっと……」
そう言われても……今、すぐには……
「決められない?」
「いえ……その……」
「そっか、決められないか……じゃあ、勝負で決めよ」
「……勝負?」
「うん」
泉先輩は立ち上がると、ぐるりと校庭を見渡した。
「体育祭のリレーで同じ距離の走者として戦って、みなみちゃんが勝ったらゆーちゃんに想いを告げてもいい。でも、もし私が勝ったら――」
そして、私のことを見下ろして……
「みなみちゃんは、ゆーちゃんへの想いを諦めること」
挑発するように、小さい声で言い放った。
「そ、そんなっ!」
「だって、ずっと迷ったままだったら、またゆーちゃんを傷つけるかもしれないんだよ?」
「…………」
「その前に、決着をつけよう。みなみちゃんと私が戦うことで」
泉先輩と、私が戦う……?
ゆたかのお姉さんと戦うだなんて……考えたくもないし、したくもない。だって、もしかしたらまたゆたかが傷つくかも――
「あっ、ちびっ子! なんでお前がここにいるんだよー!」
「えっ?」
突然、日下部先輩の叫び声があたりに響く。
「やあ、みさきちもリレーの練習かい?」
泉先輩は、さっきの冷笑が嘘のように日下部先輩にのほほんと向かい合っていた。
「私もかって、もしかしてちびっ子も?!」
「そーだよー」
「そっか。だったら、勝負だ勝負! 私と勝負して勝ったら、柊は一週間私たちとお弁当だかんな!」
「ああ、それに関してなんだけどさ。実は今、みなみちゃんと約束しちゃったんだよね」
「なにぃっ?!」
「い、泉先輩……?」
なんで……? まだ、返事してないのに……
「そっか、岩崎さんと勝負かー……約束だったらしょうがないか。でも、岩崎さんはウチのエースなんだから、楽に勝てると思うなよっ!」
「えっ……えっ?」
日下部先輩、なんで指をびしっと……?
「私だって伊達に記録持ちじゃないからさー。ま、300mランナーとして待ち受けてますよ」
「くっそー! 岩崎さん、こうなったら特訓だよ、特訓!」
「あの、その……私は……」
なんで、二人の間でトントン拍子に決められていくの……?
「んじゃま、そんなわけでがんばってねー」
「あっ、あの……泉先輩?」
私の問いかけを振り払うようにして、泉先輩は手ひらひら振りながら別のリレーの集団のほうへと行ってしまった。
……どうしよう。
「さっそくみんなを集めないとね。ほらっ、みんな、練習やるよーっ!」
「「はいっ!」」
日下部先輩と他の先輩たちの声が、またあたりに大きく響く。
……どうしよう。
泉先輩と、勝負だなんて……
私は呆然としたまま、泉先輩が去っていったほうをただ見つめていた。
* * *
『糟日部、糟日部です。野田線はお乗り換えです』
ドアが開くのと同時に、人混みに流されるようにして外に出る。
同じ制服の人たちに混じって改札を出て、スクールバスのバス停へ。
いつも通りのはずの、通学の喧噪。だけど、みゆきさんは今日も委員会のお仕事があってもう先に登校している。
バス停で待っていても、泉先輩や柊先輩、田村さんはやってこない。
そして……ゆたかの姿も無い。
みんなの姿を追っていたけど、誰も来ないままスクールバスに乗り込んだ。
がたんごとんと、揺れるバス。おしゃべりしたりする人たちもいたけど、私はただ黙っているだけ。学校に着いて、校門前であたりを見ても誰かがいるわけでもない。
教室に入っても、人はまばら。軽くあいさつはしても、それだけで終わり。
「せ、先生はっ?! 先生はまだだよねっ?!」
始業のチャイムが鳴っている最中、目の下にくまを作った田村さんが飛び込んでくる。
申し訳なさそうに笑う田村さんに、会釈を返す私。
少しだけ気が楽になったけど……やっぱり、ゆたかは来ない。
ホームルームに来た担任の先生からも、ゆたかの欠席が告げられる。
今日も、ゆたかがいないんだ……
落ち着きかけた心が、また沈んでいく。
そこまで、ゆたかはショックを受けていた。
そこまで、私はゆたかを傷つけた。
そう思い知らされたみたいで……心が、強く痛む。
授業のかわりの体育祭の準備も、手につかない。
創作ダンスは、細かい失敗の連続。
リレーも、バトンリレーは出来てもうまく走れない。
うまく走れたと思ったら、今度はバトンを渡しそこなって……
「うーん、どしたの? 悩み事? そんなの走って忘れて、全部吹き飛ばしちゃいなよ!」
日下部先輩はそう言ってくれたけど、吹き飛ばせない。
だって、ゆたかとことだから。忘れて吹き飛ばすことなんて、できるはずがない。
でも、迷惑はかけないようにしないと……明日は、もう本番なんだから。
お昼になって、田村さんといっしょにお弁当。
時々話したりもするけど、会話が続かない。
いつも三人いっしょだったお弁当なのに、ゆたかがいなくなっただけで噛み合わない。
そういえば……いつも、ゆたかがお話の軸になっていた気がする。
ゆたかがいない今になって、それに気付くだなんて……
お弁当を食べた後、いっしょに飲み物を買いに行った道のりも、今は一人。
友達と連れ立って買いに行ったりする中で……私だけが、ぽつんと歩いている。
味気ない、ただの行き帰りの作業。
いつも楽しみにしているミルクティーも、今日はおいしくない。
午後の練習も、放課後のホームルームも。
ことあるごとにゆたかの姿を追って……その度に、ゆたかがいないことを思い知らされる。
いつも、そこにいるのが当たり前だったのに。休んだ次の日でも、お見舞いに行った次の日には元気な姿でここにいたのに。
もちろん、お見舞いに行きたいとも思った。
だけど、そこは泉先輩の家。私と勝負をしようと言った、泉先輩の……
『たとえみなみちゃんでも、ゆーちゃんを傷つけたら絶対に許さない』
無表情に言い放ったその言葉を……忘れられるはずが、ない。
何もかもが、八方塞がり。
からっぽになった心が、音を立てるように軋んでいく……
「あら、岩崎さん。ちょっと遅かったですね」
「……えっ?」
突然の声に、私は思わず声を上げた。
どうして、目の前に天原先生が……?
「おー、珍しいな。岩崎がこんな時間に来るとは」
それに、桜庭先生……?
見回してみれば、開け放たれたカーテンと、ベッドと、薬品類と……見慣れたものがたくさん置いてあった。
そっか……明日の保健委員の担当のことで呼ばれたから、保健室に向かっていたんだっけ。
「……すいません、遅れました」
「いえいえ。ただ、早い者勝ちということで救護テントの担当が決まってしまったので、空いた時間しか入れられないんですよ」
申し訳なさそうに言う先生から、タイムシートが書かれたプリントを渡される。そこにはぎっしりと名前が名前が書かれていて、ほんの少しだけ虫食いのように空白があった。
「……では、私はダンスとスウェーデンリレーがあるので……午前一番で」
「助かります。準備運動や体調管理を怠った生徒が、案外怪我をしたり気分が悪くなったりして来る時間帯でしたから」
「……そうなんですか」
「いつもふゆきはそれで目を回していたからな。ま、頼む」
何故か、桜庭先生にもお願いされてしまった。
「もうっ、学校じゃせめて先生をつけてって言ってるじゃないですか」
「別にいいだろー、知らない仲でもあるまいし」
「公私の区別はしっかりつけないといけません」
「そんな堅苦しいこと言わんでも」
小気味のいい、二人の弾むような会話。
まるで、ずっといっしょにいたみたいに……
「……お二人とも、仲がいいんですね」
「ま、腐れ縁といったところだ」
「ひかるちゃん……ちっ、違いました、桜庭先生とは小さい頃から顔見知りなんです」
「言ったー、今ひかるちゃん言うたー」
「気のせいです、気のせいですよ?」
「つーか訂正しろよ。幼なじみだってさ」
「似たようなものじゃないですかー」
幼なじみ……ということは、二人とも、いつもいっしょにいて……だから、こんなに仲がいいのか。
「い、今のはなかったことにして……それでは、明日はよろしくお願いしますね」
「は……はい」
珍しい……天原先生が、こんなにあたふたするなんて。
「学校でひかるちゃんって言った記念に、今日はふゆきのおごりな」
「なんで、いつも名前を呼んだだけでそんなことになるんですかー?」
気軽に言う桜庭先生に、いつも通りといった具合に返す天原先生。それだけ、二人が親しいってことなのかもしれない。
私も、ゆたかとそんな風になれたら……
でも……
ゆたかは、ここにはいなくて……
泉先輩に負けたら、ずっと、友達のままで……
『だって、私はみなみちゃんが大好きだもん』
ここでゆたかに言われた言葉を、今でもはっきり覚えてる。
ゆたかは、私が好き。
でも、それは友達として。
私は……どうすれば……
「――岩崎、どうしたんだ? ぼーっとして」
「……えっ?」
その言葉に気付くと、桜庭先生と天原先生が私のことをきょとんとした顔で見ていた。
「あの、いえ……ちょっと、疲れただけです」
「今日も練習がたくさんありましたからねー。明日に備えて、ゆっくり休んだほうがいいですよ」
「はい……えっと、失礼します」
慌てて頭を下げて、私は保健室を後にした。
先生たちに、今の想いを全部吐き出してしまいそうで……だけど、こんな想いを話せるわけがない。それに、ゆたかとの想い出がありすぎる場所で……心が、苦しくて……とにかく、今は頭を冷やそう。
私は近くのお手洗いに入って、洗面所に向かった。
顔を洗ったら、きっと気分も晴れて――
『……大丈夫? 保健室まで、いっしょに行こうか?』
『あ……ありがとうございます』
「……っ!」
鏡を見た瞬間、頭の中で想い出がフラッシュバックする。
それは、ゆたかと初めて出会ったときの記憶。
大丈夫かなと思って、小さな子の顔をのぞきこんで……
その時のことを思い出した私は、急いで廊下に出て――
『会えて良かったです。ずっとハンカチ返そうと思って……』
『……あげたつもりだったから』
今のは……制服の採寸のときの想い出。
同学年だと思わなくて、それをぽつりと漏らしたらむくれてて……
それから、次は――
だんだん、歩みが早くなっていく。
靴を履くのももどかしくて、昇降口の扉を開けるのも鬱陶しくて、いつの間にか駆け出していたほどに。
『これから三年間、よろしくお願いしますっ!』
そこは、夕暮れの校門前。
初めて出会った日の、初めての別れ。
手を振るだけだった私に、そう言って笑いかけてくれた。
校門前のバス停で、宿題のことでいっしょに悩んだこと。
バスの中で、手を握ってくれたこと。
駅前のバス停で、私を見つけると駆け寄ってくれたこと。
駅のホームで、手を振って別れたこと。
電車に乗って、いっしょにお出かけしたこと。
好きになっていった軌跡が、どんどん心の中で花咲いていく。
想い出の中のゆたかは、いつも笑顔で。
凍り付いてた私の心を、あったかく溶かしてくれて。
ゆたかのことを、いつしか追いかけるようになって。
どうして、こんな大切なことを忘れていたんだろう。
眠っていた想い出に誘われるように、私は校門の前に出た。
振り返ってみれば、大きな陵桜学園の校舎が見える。
毎日通っている、大好きな場所。
そして……大好きな人との、たくさんの想い出が詰まった場所。
『みなみちゃん、ごめんなさい……私、今日は帰るね』
だけど……最後の想い出は、ゆたかの無理矢理作った笑顔。
そんな表情で、ゆたかへの想いを断ち切るのは嫌だ。
ちゃんと謝って……ちゃんと、ゆたかへ今の想いを伝えよう。
ゆたかのことが、大好きだと。
「……日下部先輩」
「おっ?」
一旦教室に戻った私は、体操着に着替えて校庭にやってきた。
「あれっ? 岩崎さん、保健委員のほうは大丈夫なの?」
何度も走ったのか、日下部先輩は疲れたようにトラックに座り込んでいる。
「……はい」
小さく頷いて、私も日下部先輩に向かい合うように座った。
「で、どしたの? これから練習する?」
「はい。それで、あの……」
「うん?」
不思議そうに、首を傾げる日下部先輩。
「……お願いします」
「い、岩崎さん?」
私は日下部先輩に向かって、深く頭を下げた。
「……泉先輩に勝てるよう、特訓して下さい」
「ちょ、ちょっと、頭は上げよーよ!」
そういうわけにはいかない。だって、先輩に教えを請うんだから。
「……お願いします」
「ま、まいったなぁ、そこまでするなんて。
まあ、断る理由なんて何もないし、私もあのちびっ子には負けたくないし……うんっ、いいよ!」
「ありがとうございます」
日下部先輩の快諾に、私は顔を上げてもう一度頭を下げた。
「わわわっ、そ、それはいいって!」
それを、日下部先輩が私の肩を揺すって手を止めようとする。
ただ、礼儀を尽くそうとしただけなのに。
「あのさ、岩崎さん。悩み、吹っ切った?」
「……いいえ、まだまっただ中です」
「そっか……でも、昼間よりずっといい顔してるよ!」
そう言って、日下部先輩は私に笑いかけてくれた。
「……はいっ」
私も精一杯笑おうとしたけど、うまくできない。
そのかわり、強く頷き返してみせた。
――泉先輩。
――私は、絶対負けませんから。
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