懐想譜

 湯飲みに注がれたお茶を、ぐいっと飲み干す。
「……ふうっ」
 体育館が涼しかったこともあって、温かいお茶が体にしみていった。
「……ぷはっ」
 隣にいるこなたも、俺と同じようにお茶をぐいっと飲み干していた。
 こなたはセーラー服姿。俺は全然着慣れてないスーツ姿っていう格好……とはいっても、こなたの三者面談とかそういうわけじゃない。
「いやー、まさか私まで来賓室なんて大層な場所に案内されるとは」
「俺も、まさか母校にこんな形で来ることになるとはな」
 そう言って、二人同時にため息をつく。
「というか、まるでアレだね。体育館の舞台ってのは、お立ち台ならぬ立たされ台というか。お父さんの顔、上がったときに思いっきり引きつってたもん」
「しょうがないだろ? 壇上に上がって講演なんて初めてだったんだしさ」
 手のひらで持てあましていた湯飲みをテーブルに置いて、ニヤニヤ笑うこなたに苦笑してみせる。
 そう……俺は二十数年ぶりに母校に来て、ご大層に「講演会」なんてのをさせられた。
「進路説明会で、成功しているOBに話をしてもらう」ってことで呼ばれたんだが、そんなのは全然、俺のガラじゃないわけで。
「だねー。真面目なお父さん、学校の面談以外で初めて見たよ」
「わ、忘れてくれ、今すぐ忘れてくれ……頭の中は不真面目だったんだよー」
 大学に入ってどうだったとか、高校生活はどうだとか、創造力というのはこうだとか、原稿におこして書いて頭に叩き込んでおいたのに、全校生徒の前に出たらすっかり吹っ飛んじまった。
「くふふふっ、『どう人生を過ごしていくか』だったっけ?」
「だ、だから言うなっ!」
「『悔いがあってもいい。それをバネにして次のステップに進めばいい』なーんて、どこぞのエロゲから取ったの? それとも、花ゆめとかマーガレットあたりから取ったんでしょーかね、おとーさん?」
「やめろっ! ハズいっ! 超恥ずかしいっ!」
 ニヤニヤ猫口で笑いながら、革のソファーにふんぞり返るこなた。ううっ、お父さんはそんな娘に育てた覚えはありまくりだけど、今はやめてくださいっ、マジで!
「わっはっはっはっ。相変わらずだな、泉」
 そんな風にじゃれあっている俺らの後ろから、しわがれながらも力強い声が聞こえてくる。
「あっ、先生」
 振り向くと、そこには二十数年前にたくさんお世話になった先生がいた。
 ……すっかり、老いた姿になって。




懐想譜

from "らき☆すた - Lucky☆Star -"

Written by Kazuki Takatori





「講演では立派だったが、情けないところは変わらんものだな」
「ひどいじゃないですか、先生。俺が口下手なの知ってたはずなのに」
 俺の抗議に、笑いながら真向かいのソファーに腰を下ろす先生。
 黒々としていた髪の多くが白髪になり、頬や額に年輪のごとく皺が刻まれたその姿は、今日までの年月の長さを雄弁に物語っていた。
「何を言っとる。文章で飯を食っとる人間が、講演ぐらい朝飯前だろうに」
「いや、だからしゃべるのと書くのは別物なんですってば」
「そのわりには立派な講演だったじゃないか。自著からの引用までしおって」
「自著からって……えっと、俺の本を読んだんですかっ?!」
 額に汗がひとすじ垂れてくるのを感じていると、先生がニヤリと笑う。
「お前が送ってこないから、図書館に入れる分までいつもオレが買ってるんだぞ」
「ちょっ……! せ、先生っ、なんてことするんですか!」
「教え子の成長を見守るのは当然のことじゃないか」
 当たり前とばかりに笑っている顔は、まさに貫禄そのもの。高校時代に俺らを叱ったり、褒めたり、話を聞いてくれたときのことを思い出させてくれた。
「それは有り難いですけど……ホント、校長先生になっても変わらないんですね」
「フンッ、歳を取ったり偉くなったりしたからってコロコロ心変わりするなんざ、軟弱者のすることだ」
「あはははっ」
 ああ……ホント、この人は変わっていない。
 俺やかなた、昔の仲間たちが世話になっていた頃と、ほとんどいっしょだ。
「ん? おお、いかんな。嬢ちゃんをほっぽっといては。こんにちは、お嬢ちゃん」
 先生はぽけっとしていたこなたに顔を向けると、皺だらけの顔をほころばせた。
「えっ……? あ、は、はい、えっと、こんにちは」
 突然のことに、こなたは慌てて何度も頭を下げた。
「こなた。この人はな、俺とかなたが高校時代に世話になった担任の先生なんだ。今は、この学校に戻って校長をされている」
「校長先生って、え、あの……」
 一通りあたふたして、何故か両方の拳を握り合わせて前に突き出すこなた。
「こ、こなた、何やってるんだ?」
「いや、目の前に校長先生がいると、何故かしょっ引かれるような気がして」
「ぶわっはっはっはっ! 泉、嬢ちゃんの性格はお前そっくりだな!」
 俺とこなたを交互に見て、先生は盛大に爆笑した。
「こなた、俺が高校時代にやらかしてたことを今ここでやらなくても……」
「おおっ、もしかしたら遺伝子レベルで刷り込まれてたとか?!」
「そうかもしれんなぁ。泉はよく俺に怒られるとこうやってたもんだ」
「なんかもー、俺ってばフルボッコ?」
 ううっ、父ちゃん恥ずかしくて涙が出てくらぁ。
「しかし……うむ、そうだな。顔立ちや佇まいのほうは、実にかなた君そっくりだ」
「はははっ、そうでしょう?」
「ああ、びっくりした。体育館で制服姿の彼女を見て、一瞬かなた君が帰ってきたかと思ってしまったからな」
 笑いながらも、どこか切なそうな目でこなたを見る先生。
 やっぱり、先生もかなたのことを思い出しているんだろうか。
「あのー、そんなに私とお母さんってそっくりですか?」
「ああ。今でこそ女子はブレザーだが、かなた君がいた頃は制服がセーラー服でな。学ラン姿の泉に付き添って、よく俺のところに来てたんだよ」
「そうなんですか」
 先生の言葉に、こなたはきょとんとした目で俺のことを見上げてきた。
「俺に怒られた泉を迎えに来るのは、かなた君の役目だったからな」
「ロマンチックかと思ったら、全然違うじゃん!」
「すんませんすんません、馬鹿やってた俺が全部悪いんです……」
 娘と元担任からのフルボッコなんて、俺ってば情けなさ過ぎじゃねーか?
「当時は職員室でも色々言われてたんだぞ。『良くできたカミさんじゃないか』とか『ダメ旦那を支える恋女房』だとか」
「ちょっと、当時は俺とかなたは付き合ってなかったじゃないですか!」
「何を言うか。当時からお前らは立派な夫婦だと評判だったんだからな」
「高校生をゴシップの種にしないでくださいよ」
 まあ、あの時からかなたのことは好きだったけどさ。俺があんなんだったからなかなか振り返ってもらえなかったけど、まわりにはそう見えてたのか。
「だから、結婚の知らせが来たときは『やっと来たか』って職員室で話題になってんだぞ」
「へえ……お父さんとお母さんって、先生たち公認のカップルだったんですか」
「ああ。あれは将来尻に敷かれるなとかみんなで噂していたぐらいにな」
「ひどいっすよ、先生ー」
 ただついてきただけの娘に、わざわざそんなことまで言わなくても……
「でも、そうか……写真の中ではあんなに小さかった子が、もうこの歳になったんだな。かなた君が逝ってから、もう二十年近く経つのか」
「ええ……もう、そのくらいになりますね」
「お前一人で、よく嬢ちゃんをここまで立派に育ててきたな。かなた君のように、まっすぐな目をしとる」
「あ……ども」
 先生の優しいまなざしに、こなたがどこか照れくさそうにつぶやく。
「俺だけじゃないですよ。妹や姪っ子が、よく俺を支えてくれましたから」
「そうか。きっと、いろんな人に囲まれて豊かに育ったんだろうな」
「はい、友達にも恵まれているようですし」
 話しているうちに、俺もこなたのことを優しく見つめていた。
「ええっと、その……あっ、お茶。お茶もらってきますね」
 そんなまなざしがこそばゆかったみたいで、顔を赤くしたこなたは湯飲みが乗ったお盆を手に外へと出て行った。
「ああいうところも、かなた君そっくりだ……おい泉、似てきたからって手を出すんじゃないぞ」
「そんな馬鹿なことしませんって。娘ですよ?」
「お前ならやりかねん」
「ひっどいなぁ」
 ニヤリと笑う先生に、俺はただ苦笑するしかなかった。
 
 *   *   *

「それにしても、とってもにぎやかな先生だったね」
「にぎやかすぎて疲れるがな」
 そう言ってから、歩きながら軽く伸びをする。
 あの人のペースには、いつも乗せられちまうんだよなあ……
「そのわりには、お父さんも楽しそうだったじゃん」
「まあ、久しぶりだったからなー……あんなに豪快な先生が、今や校長だなんて」
 来賓室を辞した俺とこなたは、先生から許可を貰って学校の中をふらふら歩いていた。
 夕暮れが迫る教室棟にはほとんど人はいなくて、たまに居残った生徒が遊んでるぐらい。ほとんどは帰ったか、部活をしてるかなんだろう。
「それだけ、長い年月が経ったってこと?」
「ああ。もう、二十年以上前になるか……この廊下なんて、飽きるほど歩いてたよ」
 木張りだった床がリノリウムに変わって、すっかり綺麗になった廊下。でも、所々傷ついた壁や柱があの頃の面影を思い出せてくれる。
「こういったところでクラスの連中とサッカーなんかやってて、蛍光灯にボールが直撃して、大事になったりとかもしたなー」
「何子供みたいなことやってんの?!」
「だってガキだったから。その度に、さっきの先生に首根っこ引っつかまれて職員室に連行されて……何故か、かなたが駆けつけていっしょに謝ってくれた」
「ガキにも程があるよ。とゆーか、その頃からお母さんに迷惑かけてたんだ」
「その時はかなたが勝手についてきたかと思ってたんだけどさ。今思うと、俺を心配してわざわざ来てくれたのかもしれないな」
「フラグクラッシャーなんだか、主人公なんだか」
「まあ、そういうフラグもあるってことだろ……おっ、ここだここだ」
 呆れてため息をつくこなたをよそに「3−2」と書かれた教室の札を見上げる。
「この教室がどうかしたの?」
「ここが、俺とかなたが通ってた教室だ。誰もいないみたいだし、ちょっとお邪魔するか」
「もう、何してるかなー」
 そう言いながらも、こなたは先に入った俺について教室の中へとやってきた。
「……うーん、やっぱり改装されてるか。ちょっと残念だな」
 机や椅子、壁紙なんかはつい最近変えたような新しさが伺える。それでも、木枠の黒板はボロボロながらもまだ健在みたいだった。
「でも、なんか不思議な感じだね。他の学校の教室にいるのって」
 机に寄りかかりながら、こなたが一人ごちる。
「まさか、お前がついて来るとは思わなかったよ」
「お父さんが誘ったから来たんじゃん」
「そりゃそうだけども、柊さんや高良さんと遊ぶ予定とかあったんじゃないか?」
「かがみとつかさは神社の秋祭りの準備で、みゆきさんはみなみちゃんトコと用事でしょ。ゆーちゃんもついていっちゃったから、学祭の代休だって言ってもヒマそーだったし――」
 こなたは確かめるようにそう言うと、俺に楽しそうに笑いかけた。
「久しぶりに、お父さんとお出かけするのもいいかなって」
「そうか」
 こうやって親子で出かけるのって、いつぐらいぶりだったろうか。
 まさか、こんな形で久々にこなたと出かけるとは思ってもいなかった。
「でも、退屈だったろ? 俺の母校の訪問だなんて」
「そうでもないよ。お父さんのギクシャク演説が見られたから」
「だから、それを持ち出すなっての」
 まったく、どうしてこうも父親をおちょくるかね、こいつは。
「あははっ、冗談だってば。冗談」
 そう言いながら、こなたがぱたぱたと手を振ってみせる。
「それに、お父さんとお母さんがどういうところで過ごしたのかを見れたし、さっきの先生にいろいろ聞けてよかったよ。高校時代のお父さんたちのこと、全然知らなかったから」
「そういえば、実家に高校のアルバムを置きっぱなしだったっけ」
「なんかさ、お父さんとか先生の話を聞いて、こうやって学校を歩いてるると、こんな風に過ごしてたのかなってイメージが浮かんでくるんだ」
 俺や先生の話って、俺が情けない頃の話ばっかりじゃないか? そんな頃のことをイメージされても……
「ねえ、お父さん。お母さんとのこと、もっと教えてくれる?」
 みじめにそんなことを考えている俺の顔を、じっとのぞき込んでくるこなた。
 開けっ放しの窓から吹き込んだ風が、こなたの長い髪をさあっとなびかせた。
「えっ? でも、さっき先生からいろいろ聞いてたじゃないか」
「お父さんの口から、お母さんのことを聞いてみたいんだってば。ここにいたときのこととか、私が知らないことばっかりだし」
「むう……」
「ね、お願い」
 思えば、こうやってこなたが物以外のものをねだってくるのも珍しい。それに、なんといっても話はかなたのことだ。まだ話していないことだって、いっぱいある。
「よし、わかった。ただ、もう時間も時間だし……学校の中を散歩しながら話そうか」
「うんっ」
 楽しそうにうなずくこなた。その瞳は、お話をせがむ子供のようにきらきらと輝いていた。
「確か、最後に座ったのは……ああ、この辺りか」
 遠い記憶を掘り起こして、ゆっくりと窓際最後列の席へと近づいていく。
「俺がここに座って、かなたがその前に座ってたんだ」
「へえ、前と後ろだったなんてよっぽど縁があったんだね」
「ああ。で、授業中暇になるとかなたの髪をいじって怒られたり」
「だからなぜアナタはそんなことをしますか」
「好きな子ほどいぢめたくなるってよく言うじゃないか」
「ホントにその頃から成長してないんだねー……」
 いや、さすがにやりすぎたとは思ってるよ。勝手に三つ編みにしたりポニーテールにしたりとかは。でも、可愛かったんだからしょうがないじゃないか!
 ――なーんて、そんなことを言ったら、こなたはもっとガックリするんだろうな。
「お父さんは、その頃からお母さんが好きだったの?」
「ほとんど片想いだった――と思ってたよ、その頃は。小さい頃からかなたのことをよくからかってたし、迷惑もいろいろかけてたから、きっと心の奥では嫌われてるんだろうなって。それでも、好きだっていうのは止められなかった」
「ふうん。じゃあ、大学になってようやくお母さんに言う勇気が出たってこと?」
「ああ。東京に出てから色々あって、かなたといっしょに過ごすことが多くなってな」
「それで、あの『最低』な告白に繋がったんだ」
「あ、ああ、悪いか?」
「何照れた顔してるのさー」
「いや、こら、やめろって」
「くふふふっ」
 うりうりと、俺の頬をつついてくるこなた。
 でも、これも言えないよなー……アレはただの照れ隠しだっただなんて。

 そんなやりとりをしながら、俺たちは学校の中を転々と歩き始めた。
 階段では、荷物持ちでこけそうになったかなたの下敷きになった話をしたり。
 二年のときの教室の前では、作ってきてくれた弁当がクラスの他の奴らの餌食になった話をしたり。
 体育館の前では、体調が悪くなって倒れたかなたの体が軽かったことを話したり。
 昇降口では、俺が職員室から戻ってくるのを待ってくれていたことを話したり。
 校門の前では、一度だけ告白しようとして、でもすれ違っていたことを話したり。

 この学校のどこにいても、なんとなくかなたの姿を探していたことを話したり……

「お父さんってば、本当にお母さんが大好きだよね」
「当たり前だろ」
 靴を履き替えた俺たちは、やがてグラウンドへの小径を歩いていた。
「そこまで愛してもらえて、お母さんも本望だったのかな」
「まあ、恨み言を言われたことはほとんど無かったよ」
「ほとんど?」
「『子供をオタクにするのだけはやめて』ってことは、何度も何度も言われた……」
「……ゴメンナサイお母さん、娘は立派なオタクになってしまいました」
「……ゴメンナサイかなたサン、娘を立派なオタクに育ててしまいました」
 叶うことのなかったかなたの願いに、二人してうなだれる。
 そりゃそうだよな、小さい頃から"英才教育"を施してたらこうなっちまうよなー……でも、まっすぐに育ったならそれでいいじゃないか。なあ、かなた。
 空の向こうでぷんすか怒っているかなたを想像しながら、俺は心の中で苦笑いした。

 そんなことをしながら歩いているうちに、目の前の風景が開けていく。
 だだっ広いグラウンドでは、野球部や陸上部といった運動系の部活が、夕陽の光を浴びながらそれぞれまとまって練習していた。まわりが田んぼで障害物が無いっていうこともあってか、かけ声もよく響く。
「さすがに、ここはほとんど変わらないか」
「わぁ……なんか、うちの学校より広いね」
 しゃべっているうちに、音楽室のほうから調子っ外れた吹奏楽部の音まで響いてくる。
「田舎だから、こういうことに土地を利用するしかないんだ」
「ウチの学校もまわりは田んぼばっかりだけど、そんなにグラウンドは広くないなー」
 こなたは珍しいものを見るように、あたりをきょろきょろと見回している。
 俺は花壇に腰掛けながら、昔と変わらないグラウンドの光景に目を細めていた。
 変わったのは、時の流れとここにいる人々……か。

 目を閉じてみると、はるか昔の記憶がすうっと呼び起こされる。
 かなたといっしょに購買でジュースとパンを買って、花壇に座りながらいろんなことを話した場所。進路のこととか、家のこと。勉強のこととか遊びのこと、それに、悩みごと。
 何かあったたびに、どちらともなく昇降口で待っていたっけ。
 いっしょに話して、ぼーっと校庭を見て、吹奏楽部の演奏に耳を傾けて……
 ここに来るまで忘れていたことなのに、今ではつい昨日のように鮮明に思い出していた。

 小さい頃から、かなたと俺はずっといっしょだった。
 一番古い記憶は、幼稚園に入る前。まだずっと小さかったかなたといっしょに遊びに行ったり、駄菓子屋に行ったりして、そんなときはいつも俺がかなたの手を引いていた。
 小学校になってもそれは変わらなくて、中学校になっても同じ。
 無意識のうちに、俺はかなたといっしょにいることが当たり前だと思い込んでいたのかもしれない。

 ……かなたは、一体それをどう思っていたんだろうか。
 しょうがないなという風に笑ったり、心底呆れられたり、怒ったりはされたけど、拒絶されたことはほとんど無かった。
 記憶は美化されるとよく言うけれど「幸せだった」という最後の言葉は、信じていたい。
 俺も、かなたとずっといっしょにいて幸せだったから。

「……なーんて、かなたしか知らないよな。ホントのところは」
 そう呟いて目を開けてみれば、そこは「現在」。あの頃と変わらない夕焼けでも、ここにかなたはいないんだ。
 少しさみしくて悲しいことだけど、想い出はそのまま残っているし、今の俺にはこなたがいる。
「なあ」
 気を取り直して、俺は隣に座っていたこなたに声をかけようとした。
「こな――」
 だけど……その横顔を見て、言葉を失う。
 オレンジ色の夕陽を浴びて、校庭を見つめるこなた。
 その横顔は、あの頃のかなたと同じで、
「かな……た……?」
 思わず、その名前が俺の口からこぼれていた。
「……? どしたの? お父さん」
 しばらくして、こなたがいつものように俺のほうを向く。
「えっ? いや、なんでもない」
 俺は慌てて、うるみそうになっていた目をぬぐった。
「なんでもないって、なんか目がうるんでたよ?」
「夕陽をずっと見てたら、目にしみたんだ」
「ずっと目を閉じてたのに?」
「うっさい」
「くふふっ、そういうことにしておくよ」
 ちくしょー、こりゃやばいところを見られたな……
 どことなく優しいこなたの声を聴きながら、俺はまたスーツの袖で目をぬぐった。
「さーて……そろそろ、埼玉に帰るか。明日はお前も学校だしな」
「もういいの? 想い出に浸ってなくても」
 ごまかすように言ったけど、こなたは相変わらずニヤニヤと笑っている。
「だからからかうなって」
 こりゃ、しばらくはからかわれそうだな。まあ、最後にあの懐かしい表情を思い出せたんだから、これくらい、我慢、我慢。
「そうだ、あっちに帰る前に実家でアルバムでも貰ってくか」
「アルバムを?」
「ああ」
「珍しいね、お父さんが自分から実家に行こうだなんて」
「まあ、たまにはいいだろ? それに――」
 そう言いながら、俺はそっとこなたの手を取った。
「かなたのことを、いっぱいお前に伝えたいからな」
「……うんっ!」
 俺が笑ってみせると、こなたも同じように笑顔を返す。
 こなたのおかげで、かなたとの想い出にたくさん触れられたし……それに、せっかくかなたの話を望んできたんだ。いい機会だから、いっぱい話してやろう。

「お父さんさ、こうやってお母さんと手を繋いで帰ったりしたことあるの?」
「うーん……あったけど、五分ぐらいで恥ずかしがって振りほどかれた」
「フツーだったら、それってフラグクラッシュだよね」
「それで攻略できるギャルゲーなんて、絶対売れないよな」
「売れない売れない。発売後すぐにワゴン行きだよ」
「だよなー」

 そんな他愛のないことをしゃべりながら、俺はこなたといっしょに学校を後にした。
 最後に、少しだけ振り返って……記憶の中の俺とかなたに、心の中で小さく手を振りながら。
Copyright (c) 2008 Kazuki Takatori All rights reserved.
 

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