ガラスのラビリンス
第6章
第6章
1
「これ以上……俺の負担になるようなことなんかするな!」
お兄ちゃんの言葉が……私の心に突き刺さった。
深く……鋭く……
そう。
まるで、今床に落ちたカッターナイフみたいに……
どうしてかはわからないけど、今のお兄ちゃんの言葉と表情は、私の心を痛ませた。
それに、血に濡れたカッター……
これって……
私は屈んで、それを手に取ろうとした。
「やめろ!」
お兄ちゃんの声に、一瞬手が止まるけど……それでも、私はカッターを手に取った。
かさかさとした、乾いた血の感触が手に広がって……崩れるみたいに、血のかすが手のひらに落ちていく。
……あっ。
私の記憶の中に……ずっと忘れていたことが入り込んできた。
……そうだったんだ。
もう、ずっと忘れていたこと。
「やめろ、結!」
お兄ちゃんが、私からカッターを取り上げて睨み付けてきた。
「おにい……ちゃん?」
「やめろ、これは見るんじゃない!」
だめだよ……
思い出しちゃったんだよ……
私は、お兄ちゃんから目を離して……左の手首につけていたピンクのリストバンドを、そっと下ろした。
「結!」
思い出したくなかった。
だけど……思い出しちゃった。
この、手首の傷痕を見て……私が、自分の命を捨てようとしたことを……
「お兄ちゃん……」
私は、お兄ちゃんの顔を見て呟いた。
お兄ちゃんの顔は、あの時みたいに……そして、夢の中みたいに、どこか厳しい表情をしていた。
「私……お兄ちゃんの前から、いなくなったほうがいいのかなぁ……」
ただ、ぼーっとしているみたいに……お兄ちゃんに向かって、私はそう言った。
あの日のことが、鮮明に思い出されていく。
雪が降ってた。
とっても白くて……悲しくて……
私の心の中みたいに、冷たくて。
お兄ちゃんに見捨てられたと思って……一人、学校への道を歩いていた。
『俺とは話しにくいから、言えないんだろ』
『言えないんだったら、最初から俺のところに来るなよ』
その言葉と、足早に私から離れていくお兄ちゃんの姿が、頭の中でぐるぐる回っていた。
ああ、お兄ちゃんから見捨てられちゃったんだって思って……自分の中で、ずっと後悔していたんだった。
あの時、私はクラスの女子からいじめを受けていて、それをお兄ちゃんに相談したくて、一緒に登校しようとしたんだっけ……
だけど、逆にお兄ちゃんに見捨てられて、ただ悲しくて……私は、いつものように一人で教室に行った。
入った途端に、突き刺さる一部からの視線……他の人は、私のことを無視するみたいに、見ようとしない。
「あ、来た来た。ひ弱ちゃん」
「ほんとだ、今日も寂しそうねぇ」
その、一部の子たちが私のことを笑って見ながら言ってくる。
夏から、私のことをいじめ続けてきた三人。
いつも笑いながら、私のことをひ弱とか言ってきたり、ノートに『弱すぎ』とか書いてきたり……それでも、最初は笑って済ますことができた。
だけど、それがだんだんエスカレートしてきて、冬頃には私の制服にチョークの粉をかけてきたり、黒板に私の悪口を書き始めたりしてた。
先生にうまく見つからないようにして。
そして、終業式が終わった後……
「あんた、ちょっと来なさいよ」
リーダーの女の子が、私の手を掴んでこう言ってきた。
私は何も言わないで、女の子にただ引っ張られて、教室の隅に連れて行かれた。
そこで、他の二人が待っていた。
「何か……用?」
「用ってほどじゃないけど、明日から冬休みだし、いろいろ話したいことがあるから」
「そうそう、会えなくて寂しいからね〜」
私のことを、ただあざ笑う三人。
だけど、私はただにこにこ笑ってそれを見ていた。
私は、泣いたことがなかったから。
お兄ちゃんに見捨てられても……拠り所がなくなっても。
「……何笑ってるのよ。私たちがこう言ってるのに」
「ほんとトロいんだから。私たちが何言ってもボーッと笑ってて」
「せっかく私たちが目をかけてあげたんだから、ちょっとは返事しなさいよ」
「で、でも……別にそう言われても」
私はそう言って、なんとかここから逃げ出そうと思った。
「最愛のお兄さんからも、捨てられちゃったんだもんねぇ」
「そうそう! 学校行く途中、ね」
……えっ?
お兄ちゃんとのことを言われて……私は笑顔じゃいられなくなった。
「あまりにもしつこいから、捨てられたのね」
「誰も構ってくれなくなって、寂しいでしょ」
やめてよ……
そんなことを言われる度に、私の心がだんだん痛くなっていく。
「本当よね。あなたのことを思ってくれる人なんて、この世のどこからもいなくなっちゃったんだから」
リーダーの女の子が、そう言ったとき……
「やめてよ……」
お兄ちゃんとのことは、言われたくなかったから……私はやめるようにお願いした。
「何言ってるのよ、私たちが構ってあげてるんだから、感謝しなさいよ」
「シスコン兄貴にベタベタするより、よっぽどためになるんだから」
「ねーっ」
口々にそう言われて……私はだんだん悲しくなってきた。
冷たく私を突き放したお兄ちゃんに、一緒に言われてるみたいで……
そして……
「誰にも構われないなら、死んだほうがマシよ」
その言葉が、私の心の奥底に、深く突き刺さった。
瞬間……
『私がいなくなれば、お兄ちゃんの邪魔にはならないのかな……』
そんな考えが、頭を駆けめぐった。
小さい頃から、お兄ちゃんにずっと構って貰った私。それは、お兄ちゃんのことをずっと縛り付けていることでもあったから。
そう考えたとき……私の目から、涙が出てきた。
……最初から、そうすれば良かったんだって。そうすれば、お兄ちゃんはきっと、楽になる……
悲しい考えだったけど……心の中で、どこか納得もしていた。
「死んだ方がマシよねぇ」
「うんうん、そうだよねぇ」
口々にそう言われて……私は悲しくて、ただ泣くことしかできなった。
そして、私は教室から飛び出したんだった。
……そうだ、死のう。
それだけをただ考えて……
家に帰ってカッターを取り出したときも、ずっとお兄ちゃんのことを考えてて……
そして、手首を切る前に、こう言ったんだった。
「私がいて、ごめんね」
って……
「結……そんなことはない!」
お兄ちゃんの声で、現実に引き戻された私は、お兄ちゃんの顔を見た。
私が今まで、いっぱい迷惑をかけてきたお兄ちゃんの顔は、どこか必死みたいだった。
私が、迷惑をかけたせいだよね……
私があんなことさえしなければ、お兄ちゃんは私のことを思わなかったよね……
「結……結、聞いてるのか?」
私があそこでいなくなっていれば、お兄ちゃんが自分を犠牲にしないでも済んだんだよね……
「ごめんね……お兄ちゃん。
私、あのままお兄ちゃんの前から消えてればよかったんだよね……」
お兄ちゃんに聞こえないくらい小さな声で、私は呟いた。
「結……ごめん、もう言わないから!」
私のことを考えすぎていたから、香織のことも考えられなかったんだよね……
「私のせいで……私のせいで、お兄ちゃんが自分を殺すようになったんだよね……」
「結……結ってば!」
そう叫んだお兄ちゃんの手を……私はそっととった。
「お兄ちゃん……
私なんかがいて、ごめんね……」
「……結?」
「私なんて、いなくなればいいんだよね……」
「やめろ! 結!」
そして、にっこり笑って……
「……ばいばい、お兄ちゃん」
そう言って……私はお兄ちゃんの部屋から走って出ていった……
2
「はぁ……はぁ……
肩で息をしながら、私は学校の中を歩いていた。
まだ先生たちはいるみたいで、学校中に電気がつけられてた。
明日の卒業式の準備のためなんだろうけど……私にそんなことは関係なかった。
しないといけないことがあるんだから。
靴を脱いで、そのまま床に上がった私は、ゆっくりと階段に向かった。
空気が冷たくて、体が震える。
けど、もうそんなことは関係なかった。
ただ一人、廊下を歩いていく私。
廊下はとっても静かで、私の心を落ち着かせてくれた。
決心を固めるのに、十分なほど。
途中で誰かがすれ違ったけど、私は振り向かないで階段を昇り始めた。
……目指すところは、ただ一つ。
……お兄ちゃん、ごめんね。
小さいときから、私のせいで自分のことができなくなっちゃって。
私の体が弱いせいで、いろいろ迷惑をかけたよね。
私が休んだときに、お兄ちゃんも休んでくれたりした。
高校も、自分の行きたかった学校を蹴ってまで、私の行きたい学校にしてくれた。
毎朝毎朝、私のことを心配しながら一緒に登校してくれた。
だけど、きっと迷惑だったよね。
あんなに優しい顔をしていたけど、その裏側じゃ、私のことをどう思ってたんだろう。
……お荷物だったんだろうね。
お兄ちゃんが言っていたみたいに、きっと負担だったんだよね。
きっと、足手まといだったんだよね。
ずっと、お兄ちゃんの後をついていってばかりの私。
お兄ちゃんの手助けもできなくて、逆に私が助けてもらってばかり。
そんな私が、お兄ちゃんにしてあげられたことなんて、きっとないよね。
ただ、迷惑をかけていただけ。
だから、お兄ちゃんはあんなことを言ったんだよね……
負担になっちゃっていたんだから。
あのとき、私がお兄ちゃんの気付きそうもないところで手首を切っていれば、あのまま消えることが出来たかもしれないのに。
自分の部屋で切っちゃったから、早く見つかって……また、お兄ちゃんに迷惑をかけちゃったんだよね。
それに、一昨日のときも、お兄ちゃんに見つからないほど遠くに行っていれば、死ねたのかもしれないのに。
雪に埋もれて、誰にも見つからなくてそのままだったら、どんなに良かったんだろう。
あの時も、お兄ちゃんに迷惑かけちゃったもんね……風邪をひきそうになってでも、私のことを捜しに来てくれて。
結局、迷惑のかけっぱなし。
香織がああいう風に言った気持ちも、今ならわかる。
香織にとっても、私の存在なんて、ただの迷惑だったんだろうね。
お兄ちゃんとの恋愛を、ずっと私が邪魔していたんだもん。
私がいたばっかりに、香織はお兄ちゃんに振られたんだもん。
それで、香織は私にあんなことを言ったんだろうね。私なんて、ただの邪魔でしかなかったんだよね。
だから、お兄ちゃんも香織のことを殴っちゃったんだろうね。私のせいでって気持ちを、香織にぶつけちゃったんだよね。
ああ……そうかぁ。
結局、私ってお兄ちゃんだけじゃなくて、みんなの重荷だったんだね。
私がいなかったら、みんなはきっと平和に過ごせたんだろうね。
ごめんね……
私がいなくなれば、みんな済むことなんだよね……
だから、私は……
屋上の階についた私は、屋上への扉をじっと見つめた。
そして、それをそっと触る。
氷のように冷たくて、重く感じる黒い扉。
今の私の心に、ぴったりかもしれない。
そう思いながら、私は扉を強く押した。
「きゃっ……」
冷たい風が、中に吹き込んでくる。
驚いた私はちょっと仰け反ったけど、それでもどうにかして外に出た。
真っ暗で、ただ寒いだけの場所。
昼間はまわりがよく見えて綺麗なのに、夜はまったく逆で何も見えない。
見えるのは、遠くに光っている街並みの灯りだけ。
ちょうど、都合いいのかもしれない。
……誰にも迷惑かけないで、消えるのには。
一歩踏み出す度に、凍るみたいな雪の冷たさが足に響いてくる。
もう、私にはそんなことは関係ないことなんだけど。
このまま凍えても、別に構わないんだから。
そのうち、フェンスに手が触れる。
この向こうにさえ行けば……
そう思いながら、私はフェンスの上の方に手をかけて、それを上ろうとした。
「よい……しょ……きゃあっ!」
だけど、フェンスはとても上りづらくて、私は何度も腰を打ち付けた。
その度に、制服のスカートが融けかかっていた雪で冷たく濡れる。
それでも私は、フェンスの向こうに行きたくて何度もフェンスに手をかけた。
やっと登り切れた頃には、もう着ていたものもびしょびしょに濡れていた。
そのまま、またぐようにして向こう側に降りる。
「痛っ……」
降りたときに、足をひねっちゃったみたいで、足首に激痛が走った。
けど、もうそれも関係ない。
あとはもう……ここから飛び降りればいいんだから。
ふと、私は空を見上げてみた。
降り続いている雪はさっきよりもずっと強くて、止みそうもない。
……私が消えれば、お兄ちゃんはこの時間の輪から抜け出せるのかな。
私がいたせいで、この時間の輪に入っちゃったのかもしれないんだから、ね……
明日になれば、きっとこの雪も降り続いているよね……
そして、視線を目の前に向けた。
広がるのは、ただの闇。
普段は緑の森だけど、今はただ暗い闇があるだけ。
今すぐにでも吸い込まれそうな、そんな感じの空間が、私のことを待っているみたいに広がっていた。
……そろそろ、行こうかな。
私はフェンスを掴んでいた手を離して、一歩闇のほうへ踏み出した。
「結っ!」
「結ぃ!」
「えっ……」
ドアが乱暴に開く音がして……誰かが、入り口の方から出てきた。
この声は……
「お兄ちゃん……香織……」
振り向くと、そこには二人が立っていた。
だけど、どうして……
「結っ、馬鹿な事はやめろ!」
「そうよ、なんであなたがそんなことしようとするのよ!」
暗いせいで表情がよくわからないけど、二人は必死になって私に呼びかけていた。
「二人の前から消えようと思って……私がいると、お兄ちゃんたちに迷惑をかけるから……」
広がっている闇のほうに向き直しながら、私は二人にそう言った。
「馬鹿言うなよ、いつ誰がお前のことが迷惑だって言った!」
「だって……私はお兄ちゃんのことを、ずっと過去に縛り付けていたんだよ? 私のせいで、お兄ちゃんも香織も、幸せになれなかっんだから……迷惑でしょ?」
「そんなことはないわよ、あれはただ勢いで言っちゃっただけで――」
「私がいたから、香織が傷ついて……私がいたから、お兄ちゃんは自分を殺して……みんなみんな、私のせいなんだよ」
私は香織の言葉をさえぎって言った。
「何を言ってる、俺はずっと結のことを思ってやっただけだ! 迷惑なんかしてない!」
「……お兄ちゃん、私がいると負担だったんでしょ? 五年前も、それに、今も……」
「それは俺の責任だ、俺がお前から離れようとしたり、お前のことを守ろうと思ったせいで、お前に――」
「私がいけないんだよ……お兄ちゃんにそうさせる原因を作ったんだから……」
「結、そんなこと言うな! こっちに戻ってこい! なあってば!」
お兄ちゃんたちが、こっちのほうに歩み寄ってくるのが聞こえる。
「来ないで!」
「結……」
「お兄ちゃん……香織……私はね、ここにいない方がいいんだよ。
私がいたせいで、みんなにいらない負担をかけて……みんな、ぐちゃぐちゃになっちゃって……私がいなければ、そんなことにはならなかったはずなのに。
だからね……私がいなかったら、みんな正常になれるでしょ? お荷物なんか、いなくなるでしょ?」
「結、そんなこと言うな!」
「また……明日が迎えられるでしょ?
だから……」
そして、私は振り返って……
「私のことは、覚えてなくていいから」
「結……?」
にっこりと、笑ってみせた。
「さよなら」
そのまま闇の中へ倒れ込む。
支える物は何もなくて……ただ、下へ落ちていくだけ。
ふわっと浮いたみたいに軽くて……
暗い暗い、闇の中へ……
これでもう、全部終わるんだ……
そう思って、私は目をつむった。
もう、目を開ける必要なんてないから……
「結ぃぃぃぃぃぃ!」
えっ……
開ける必要のなかったはずの目を、また開く。
その瞬間、私の体が大きく引っ張られるような感じがした。
「……!」
お兄ちゃんが……私の袖を掴んで、必死な表情でこっちを見ている。
嘘……!
お兄ちゃんまで死んじゃうよ……!
そして、私を森のほうに引っ張り込もうとするお兄ちゃん……
私は逃げるようにしてお兄ちゃんの手を振りほどこうとした。
だけど、お兄ちゃんは離してくれなくて……
「くそっ!」
空いてる手で、私たちにかすっている木の枝に捕まろうとしていた。
「きゃあ!」
掴むことが出来たみたいで……私は、体が上に浮くみたいなショックを受けた。
「お、お兄ちゃん……」
見上げると、お兄ちゃんは私の袖を掴みながら、必死に木の枝を掴んでいた……
「お兄ちゃん、すぐ折れちゃうよ、だから……私の手、離してよ!」
私はそう叫んだけど、お兄ちゃんは必死に首を振る。
「どうして!?」
私の言葉に、お兄ちゃんは下を向いて……
「……お前は、俺の妹だから……」
そして、にっこり笑いながら……
「それに……俺の大事な女だ」
「!」
そう……言ってくれた。
だけど、その瞬間……
「うわっ!」
「きゃあ!」
枝が折れて、私たちは下の方に落ち始めた。
怖くなった私は、目をぎゅっとつむった。
そんな私のことを、お兄ちゃんはぎゅっと抱きしめてくれて……
「結……!」
庇うみたいにして、自分の背中を地面のほうに向けた。
「お兄ちゃん……!」
私も、お兄ちゃんに応えるみたいに制服を掴んだ。
そして……
「ぐっ!」
強い衝撃が、お兄ちゃんの体を通して走った。
固まっていない雪の中に落ちたみたいで……雪の冷たさが、じわっと広がってくる。
私の体には、その衝撃が伝わっただけ……だけど……
「ぐっ……」
「お、お兄ちゃん……?」
お兄ちゃんは、うめいているままで……
「お兄ちゃん……」
私のことを抱きしめたままで……
「お兄ちゃん……!」
肩を震わせて……
「お兄ちゃんってば!」
「……重くなったよな、お前も」
「えっ……?」
見上げると、お兄ちゃんが私のことを見つめていた……
「……まったく、無理しやがって」
「……お兄ちゃん……」
抱き留めてくれているお兄ちゃんの体は、とっても暖かくて……
「結は、俺の大事な女の子なんだから……」
また、ぎゅっと抱きしめてくれて……
「心配しなくたっていいんだ……
「お兄ちゃん……」
「どんなに離れていても、別にいい……だけど、俺が絶対手の届かないところにだけは行かないでくれ。
さすがの俺だって、天国までは行きたくないからな」
「私のこと……邪魔じゃないの?」
不安になりながら、私はお兄ちゃんに聞いてみた。
「ばーか……俺と結は兄妹なんだから……一緒にいて、何があったってお前のことを助けてやるのが当たり前だろ」
「…………」
「それに……お前といられることが、俺の一番の幸せなんだ」
お兄ちゃんの言葉が、とってもあったかくて……
「だって……
俺は、結のことが大好きなんだからさ」
にこっと笑ってくれるお兄ちゃん……
私は、それを見て……
「お兄ちゃん……っ!」
思いっきり抱きついて、そして……
「お兄ちゃん……お兄ちゃぁぁん!」
私は泣きながら、お兄ちゃんのことを何回も何回も呼んだ……
「ごめんなさい……ごめんなさい! お兄ちゃんのこと、何も考えないで……私が勝手に思いこんだせいで、こんなことにまでなっちゃって……!」
「いいんだよ……もう。ただ、勘違いだけはしないでくれよ。
お前は邪魔なんかじゃない。それどころか、お前がいないことなんて、考えられないんだ……だから、自分から消えようなんて、思わないでくれ」
優しいお兄ちゃんの言葉に、私は抱きつきながら、ただ頷いた。
「……ごめんな、結。
もう、絶対不安にさせないから……」
そう言って……そっと、私の頭を撫でてくれるお兄ちゃん。
「……うんっ……」
その感触が、私の冷たくなっていた心をだんだん融かしてくれて……
冷たいはずの風も、私とお兄ちゃんのことを優しく包んでくれて……
私はただ、お兄ちゃんの腕の中でずっと頷くことしかできなかった……
3
カーテンを閉めて、私は小さくため息をついた。
時計を見てみると……十一時半。
長い一日が、もうすぐ終わろうとしている。
あれから私たちは、学校に残っていた先生に謝ったり、お兄ちゃんの背中の治療をしたりした。
学校ですれ違った先生が、お兄ちゃんに連絡してくれたらしくて……なんだか、申し訳なく思った。
私があんなことをしようとしたせいで、たくさん心配かけちゃったし……明日、学校で顔が合わせづらいなぁ。
今日のことはなかったことにしてくれるって言ったけどね。
お兄ちゃんは背中を打ったけど、途中に掴んだ枝と、積もってた雪がクッションしてくれたおかげで、なんとか打撲だけで済んだみたい。
……帰りに、何度も背中をさすってたけど。
そんなことがあって、私たちは今さっき家に帰ってくることができた。
すっかり濡れちゃった制服の水分をとって、窓際にかけた私は、そのまま机のほうに向かった。
そして、引き出しを開ける。
中には、時間の輪の中でずっと書き溜めていたスケッチが、幾枚も入っている。
私が、ずっと描き続けてきた絵……最後にお兄ちゃんに残しておこうと思って、これを描いたんだっけ。
一枚一枚の絵を改めて見てみると……なんか、恥ずかしいなぁ。
確かに、構図とかは同じだけど……技術はついてきてるって、自分でもわかるもん。
ちょっと恥ずかしくなりながら、私はその絵をまとめてから、手に取った。
そして、それを持って……私は、ドアノブに手をかけた。
ちょっとドキドキするけど……それでも、行かなきゃ。
お兄ちゃんに、この絵を見せて……ちゃんと話したいから。
「お兄ちゃん」
ドアをノックしながら、私は呼びかけた。
「何だ?」
中から、お兄ちゃんの返事が聞こえてくる。
「ちょっと入っていいかな」
「ああ、いいぞ」
「おじゃましまぁす」
ドアを開けて部屋に入ると、ストーブのあったかい空気と、机からこっちを見てるお兄ちゃんが私を迎えてくれた。
「どうした? 結」
「えへへっ……ちょっと、お兄ちゃんに見てもらいたい絵があるの」
さっきまでのことが嘘みたいに、私たちはまた昔のような関係に戻ることができた。
もう、お互いを苦しめる物はないもんね。
「うん? どれだ?」
「これっ」
そう言って、後ろ手に隠しておいたさっきの絵の束を、お兄ちゃんに手渡した。
「どれどれ……」
最初の一枚を見たお兄ちゃん……あ、固まった。
「こ、これって……」
そんなお兄ちゃんに、私はにっこり笑いかけた。
「お兄ちゃんへの、東京行きの前の最後のプレゼントだよ」
お兄ちゃんの絵を描いて、渡そう……そう思ったのは、いつのことだったんだろう。
もう、随分前に感じる。
「プレゼント……か」
「うん……夢をくれたお兄ちゃんへのね」
「夢……?」
「そう、私の将来の夢。
お兄ちゃんがね……体の弱い私に、将来の夢をくれたんだよ」
中学で、いじめに遭っていたあと……ずっと家に籠もりがちだった私に、お兄ちゃんは「絵を描いてみな」って言ってくれた。
私が絵を描くたびに、お兄ちゃんは喜んでくれて……その喜ぶ顔が見たくて、私はずっと絵を描き続けた。
「絵が描くのが大好きになれて……それで、絵を描くことを職業にしたくなって、東京の専門学校を選んだの。
別に、お兄ちゃんから離れたくてとか、そういうわけじゃなくて……東京に行って専門的にやれば、もっと上手くなれると思ったの。
それで、お兄ちゃんに恩返ししたくて……」
「恩返し?」
「うん、そう。
お兄ちゃんが夢をくれたお礼……もっと絵が上手になって、有名になってやるんだって」
私の、目標……明日に行きたい目的。
「それをね、また思い出させてくれたんだよ。お兄ちゃんが優しくしてくれたおかげで……」
「結……」
「だから……お兄ちゃん。離ればなれになっちゃうけど……応援してて。
離れていても、きっと大丈夫だから……いつも、お兄ちゃんをそばに感じてるから……だって、私たち双子なんだもん」
ずっと笑顔で、私はそう言った。
言いたいことを言わないで後悔するのは、もう嫌だから……笑って、全部言おうって決めてた。
今までずっとそれができなくて、言うのを避けてたけど、今ならそれが伝えることが出来る……そう思えたから。
「……そうだな。結が自分で決めたことだし、俺がきっかけを与えたなら……応援しないわけにはいかないしな」
笑顔で言ってくれたお兄ちゃん。
「わかった……東京でも、がんばれよ」
その言葉がとっても嬉しくて……
「ありがとうっ!」
「うわっ!」
私は思わず、お兄ちゃんに抱きついた。
「ありがとう……本当に……」
「……正直、寂しくなるけどな」
「お兄ちゃん……」
「だけど、お前が決めたことだから……もう、お前が心配することはもう言わないよ。
だから、精一杯がんばるんだぞ?」
「うんっ!」
私はそう言って、大きく頷いてみせた。
それが、約束の証。
「高瀬ともがんばるって約束したんだし……だけど、あまり無理するなよ」
そう。学校からの帰り際……私は香織と話をした。
お兄ちゃんが一緒に私のことを捜すために香織を呼んだらしくて、下に落ちた後、やっぱり怒られちゃった。
『あんな馬鹿な真似をして』って。
だけど、私とお兄ちゃんのことを解ってくれて、また仲直りすることができて……とっても嬉しかった。
また、香織の笑顔を見ることができたんだもん。
お兄ちゃんとも、香織とは「いい友達になれそうだ」って言ってたし、ちょっと安心……かな。やっとスタートラインって感じで。
「お兄ちゃんも……香織と一緒に、大学頑張ってよね」
「当たり前だろ。お前が頑張るっていうのに、俺が頑張らなくてどうするんだよ」
「ふふっ、そうだよね〜」
久しぶりの、私たちらしい会話。
それができるのが嬉しくて……もうすぐ出来なくなるかもしれないけど、今は精一杯楽しもう……そう思った。
それから、私たちはいろんな話をした。
子供の時の話や、高校での想い出のこと……私たち、お互いのこと。
たくさんありすぎてもどかしかったけど、とても楽しくて……
風邪をひくといけないからって、ベッドで寝かせてくれて……隣に入ったお兄ちゃんは、ずっと話をしてくれた。
お兄ちゃんと一緒のベッドは、あったかくて、ぽかぽかして……ちょっとうとうとしたりしちゃったけど、どうにかして眠気に耐えていた。
話をしていて、わかったことがある。
私とお兄ちゃん……お互いが、思い合っていたこと。
だけど、思い合いすぎて、お互いのことを見失っちゃって……元に戻りそうで、元に戻れなかった。
この過ごしている時間の中がそうみたいに、ぐるぐると繰り返すだけで……結局、今日みたいなことになっちゃった。
それでも、もう後悔はしていない。
お兄ちゃんと、また元に戻ることができたんだもん……どんな形であれ、昔のままに。
だから……ずっとお兄ちゃんと、思い合っていたいと思う。
私たちもそうしたいし……お兄ちゃんもきっとそうだから……
お互いのことが、大好きだから。
お兄ちゃんが頭を優しく撫でてくれるのを感じながら、私はそう思った……
……あれっ。
いつの間に、寝ていたんだろう……
ほっぺたに感じる寒い空気が、私の目を覚ました。
さっきまで、ずっとお兄ちゃんと話していたはずなのに……
横のほうを見ると、お兄ちゃんもすーすー寝息をたてている。
話をしながら、寝ちゃったのかなぁ……
ちょっと、残念。
だけど、お兄ちゃんの顔、かわいいなぁ。
子供の頃、一緒に私と寝ていたときも、こんな感じだったよね……
お兄ちゃんの顔を見ながら、私はそんなことを考えた。
……そういえば、今の時間って何時だろう。
ふとそんなことを思い出して、上のほうにある壁掛け時計に目を移した。
――六時十五分。
カーテンの隙間からは、光が差している。
明るい、淡い光……
私はお兄ちゃんに気付かれないように、ベッドからそっと出た。
寒いけど……我慢しなきゃ。
そして、カーテンの目の前に立つ。
私たちの、明日への扉かもしれない……
この向こうに、きっと違った景色が広がってるはず。
私は心の中で願いながら、カーテンに手をかけた。
そして……
それを、ゆっくりと開いていく。
冷たい空気が一緒に広がって……
眩しさに一瞬手をかざすと、
「あっ」
外に広がる、真っ白な世界が広がっていた。
空から降り注ぐ、白い粉雪と一緒に……
明日への扉が、開いた。