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ガラスのラビリンス

第5章

 1

「お兄ちゃんっ!」
 結の怒鳴り声が、俺の横から聞こえてくる。
 学校からの帰り道……さっきからずっとこんな状態だ。
「教えてよ……」
「だから、お前には何も関係ないって」
 なんとか冷静に言う俺。
 けど結は、俺がそう言うたびに不満げにまた問いかけてくる。
 もう何度、こんなやりとりをしたんだろう。
 それでも、俺は結にこのことを何も言いたくなかった。
 いや、結に言っちゃいけないんだ。
 だけど、あいつのせいで……
 さっき高瀬をひっぱたいた手が、冷たい風のせいで痛く感じる。
 それが、酷く俺を苛立たせた。
「嘘言わないでよ……」
 悲しそうに結は言うけど……俺はどうしても言っちゃいけないと、自分に言い聞かせた。
 これも、あいつがあんなことを言ったせいだ……
 あいつが結に、昔のことを持ち出そうとしたせいだ。
「嘘じゃないから……な?」
「だけど……」
 そう言って、俯く結。
 ……それを見て、また心が痛む。
 結に嘘をつきたくないけど、こればかりは心を鬼にするしかなかった。
「お前には関係ないことなんだから。俺と高瀬のことなんだから、心配することはないんだって」
 俺は、結を諭すように言った。
 こうでも言わないと、結は納得してくれないだろう。
「でも、香織が私の名前出して……」
 ……納得してくれなかったみたいだな。
 まあ、あの高瀬の剣幕からして、当然かもしれない。
「お前は気にしなくていいんだ」
 苦笑しながら、結にそう言ってやる。
「だって、さっきの香織との喧嘩……」
 俺のことを不安そうに見上げながら、結がぼそっと呟いた。
 ……まずかったかな、高瀬をあそこまで怒らせたのは。
 だけど、俺はただ高瀬に正直な気持ちを言っただけだ。
 あいつも、俺と結の過去のことは知っていたから。だからこそ、あいつには正直にそう告げた。
 結から、高瀬と会って話すようにって言われたとき……そう、決めたんだ。
 あいつなら、わかってくれるんじゃないかって思ってたから。結の友達のあいつならって。
「気にするな、ただの言い争いだから」
 今はただ、そう言うことしかできない。
 結は、さっきから疑わしそうな目で俺のことを見上げ続けている。
「ふう……」
 ため息をついて、俺は結の頭にぽんっと手を乗せた。
「きゃっ!」
「だから、そんなに心配することはないんだって……お前、ほんと心配性だよな」
「だってぇ……」
 不満げに俺のことを睨み付ける結。
 そんな結を見て、俺はまた苦笑する。
「あまり考えすぎてるなって。本当に香織とはなんでもなかったんだから」
 俺のその言葉に、結は黙って俯いてしまった。
 ……やっぱり、そう簡単には信じてくれないかな。
 あの高瀬の剣幕を見れば、当然と言えば当然かもしれないけど……
「あ、雪……」
 不意に、結が呟く。
 空を見上げると、さっきまで雲の隙間で光ってた夕陽はすっかり隠れて、ちらちらと雪が舞い始めていた。
「本当だな」
 頬に雪が舞い落ちるたぞに、冷たい感触がじわっと広がる。
「……また、このまま今日を繰り返すのかな」
 結の言葉に、俺は返事ができなかった。
 なぜなら……

 それを、俺は望んでしまっているんだから。

 俺は結の頭を撫でてやることしかできなくて、結局、家に着くまで会話は途切れたままだった。

 俺は玄関のドアを開けて、結を先に中に入れてやった。
 一戸建てだといっても、玄関に二人入るのはあまりにも狭すぎる。
 これももう、俺と結の間では当然のことになっている。
「ただいまぁ」
 結が玄関から上がったのを見計らって、俺も玄関に入ってドアを閉じた。
「ただいま」
 雪がくっついたコートを軽くはたいて、玄関から上がる。
 結がリビングに入っていったのを見て、俺はリビングのほうへ声をかけた。
「あ、俺、自分の部屋に戻ってるから」
「うん、わかった……なにか、温かいものでもいれておくね」
 どこか弱々しい、結の返事。
 まだ……不安なのかな。
「ああ、頼む」
 俺は結に応えてから、二階に上がった。
 朝から暖房がついてなかったせいもあるんだろうけど、空気が冷たく、鋭く感じる。
 ドアを開けて、部屋に入る。
 さっきまで夕陽でも射し込んでいたのか、少しだけ暖かい。
 鞄をベッドのほうに放り投げて、俺は自分の机のほうに向かった。

 ……思い出したくなかったこと。
 ずっと、心の奥で秘めていたこと。
 あいつは結の前で、それに触ろうとした。
 それが酷く許せなかったから……俺は、高瀬のことを殴ってしまったんだ。
 あの日……あの事件以来、俺は結を絶対守るんだと誓った。
 その時の誓いの証を、俺は五年ぶりに机の奥底から取り出そうとしていた。
 机の、上から三番目の引き出し……それを開けて、中にあるものを出していく。
 ずっとしまっておきたかったものを隠したベールを、一枚一枚剥いでいく……そんな気分がする。
 そして、指先にカサカサとした感触が伝わる。
 それを指でつまんで外に出すと、幾重にもティッシュペーパーで包まれた物が出てきた。
 一枚一枚、ティッシュペーパーを剥がしていく。
 最初は抵抗なく剥がれたそれも、五、六枚剥がすとだんだんペリッという音がして剥がれるようになった。
 それとともに、ティッシュに赤黒い染みが広がっていく。
 それはティッシュを剥ぐたびに濃くなって……最後の方は、ティッシュ全体が赤黒く染まり、固まっていた。
 そして、最後の一枚……すっかり赤黒く、完全に固まったものを剥ぐ。
 出てきたのは、赤黒いもの……血がこびりついた、一本の刃物。
 まだらに血がこびりつき、固まっているカッターナイフが、そこにはあった。
 俺があの日、結のことを絶対守ってやるんだって誓った印……
 まさか、今頃になってこれを見るなんてな。
 俺はため息をつきながら、それを机の上に置いた。
 固まった血のかけらが、粉のように机の上に落ちる。
 まるで、五年の歳月を感じさせるみたいに……

 2

「お兄ちゃんっ!」
 小さな結が、俺の腕に抱きついて、笑顔を浮かべながら見上げてくる。
 小学生の頃、毎日のように繰り返されていた光景……
 体が弱く、背が小さかった結の体は軽く、小学生の俺でも十分持ち上げることができた。
「なんだよー、結」
 俺が苦笑いしながら聞き返してみると、結は「あのね、あのね」って言って、いろんなことを話してくれた。
 体が弱く、学校に行くことが少なかった結の話は、もっぱら俺との会話のことや、将来の夢のこと、窓から見ていた外の出来事とかだった。
 それを聞いた俺は、学校であったことや勉強のこと、遊びのことを話してやった。
 三、四日休むようなこともざらだった結のために、勉強したノートとかを見せてやったりもした。
 その度に、結は凄く嬉しそうな笑みを浮かべて、
「お兄ちゃん、ありがとっ!」
 と、俺に言ってくれた。
 それが嬉しくて、俺は結にいろんな事を伝えるために、一生懸命学校で勉強して、いろんな物を見たりしていた。
 母さんの帰りが遅かったりして、結のことを見ることができたのは俺だけ……そんなこともあって、俺が結のそばにいることが必然的になっていた。
 結の調子がいいときは、一緒に料理をしたり、勉強会をしたり……案外俺より頭が良かったのには、ちょっと参ったけど。
 よく喧嘩もしていた。
 結が食べようとしていたおろしリンゴをスプーンで横取りしたりすると、あいつは涙目で睨んで俺に抗議した。それを俺があしらうと、本気で泣いたりして……
 しょうがないから、また俺がリンゴをおろしてやると、結はまた笑顔に戻ってくれた。
 そんな結に、俺は進んで接してやった。
 だって、結には俺しかいなかったんだから。
 ずっと、こんな毎日が続くんだと思っていた。
 ほとんど兄妹二人だけ……毎日笑いあって、話し合って、一緒に遊ぶ、そんな毎日が。

 その生活に、ひびが入り始めた。
 中学校に入って、夏になった頃の事だ。

「ねえ、お兄ちゃん」
「あ?」
 学校に登校するとき……横を向けば、いつも結がそこにいた。
 普段通り、人なつっこく見上げてくる目……俺にとっては、それがだんだん心苦しくなっていた。
「なんか、さっきからボーっとしてて……どうしたの?」
「別に、何でもないけど」
 そっけなく言う俺。
 いや……何でもなくはなかった。
 確かに、結の仕草はほとんど小学生のころと変わっていなかった。
 だけど、背が大きくなって成長した結は、どこか大人っぽくて……俺はそれに戸惑っていた。
 結が、大人っぽくなっていく……女っぽくなっていくことが。
 この間まで、ただの背が小さい女の子だと思っていたら……いつのまにか、俺が気付かないうちに成長していた。
 それが、俺を結から遠ざけ始めていた。
 ……思春期ってやつだと思う。
「変なの、お兄ちゃんって」
 だけど、成長しても、結の態度は変わることなく、子供っぽかった。
 今思えば……結は俺とばかり接して、家の中にずっといたから、こうなったのかもしれない。
 だけど、その時の俺はそんなことに気付くはずもなく、結の態度がだんだん苛立たしいものになっていた。
「別に、関係ないだろ」
 俺の結に対する態度も、小学生のときとは違って、冷たいものへと変わっていた。
 中学生になって、少しは体も強くなったんだしっていうこともあったけど……それ以上に、結を俺から遠ざけたいって気持ちが強くなっていた。
 それでも、結は俺についてくる。
 それが、夏頃までずっと続いていた。

 秋になって、風がだんだん冷たくなってきた頃……
 いつも通り、結は俺の横を歩いていた。
 だけど、以前とは大分違うことがかなりあった。
 まず、結が俺に話しかけてくることがなくなった。
 俺が拒んでいるっていうのを、雰囲気で察したのか……それとも、生返事ばっかりする俺のことを諦めたのか……
 それに、俺のことをあまり見なくなった。
 いや……それよりも俯くことが多くなっていた。
 結を避けるようになった俺にとっては、ある意味好都合でもあった。
 結と話すことがなくなったんだから。
 学校じゃあ結ともクラスが離れているということもあって、ほとんど顔を合わせることはなかった。
 家でもそれは同じで、会うのはご飯のときに顔をつきあわせるぐらい。結が体を悪くして休んでいるときでも、俺が結の世話をすることがなくなっていった。
 そして、いつしか俺と結は別々に学校へ行くようになった。

 冬が来たのは、それからすぐだった。
 雪が降り始めて、街は白く染まっていった。
 この頃から、結はまた学校を度々休みだしていた。
 体の調子が悪いんだろうと、俺は最初に思っていた。
 自分の部屋に籠もる毎日……少し心配はしていたけど、まあ別に問題ないだろうと考えていたりもしていた。
 結の調子が悪いのは、今に始まった事じゃない。どうせまた……と。
 俺は結のことを気にせず、普通の、ごく平凡な学校生活を送っていた。

「浅村くん……結、最近どうしてるの?」
 冬休みが近づいてきたある日の放課後、俺と同じクラスの高瀬が、俺に話しかけてきた。
「ああ、結なら今日も休んでるぞ」
 浮かない目で俺を見ている高瀬。
 そんな高瀬に、俺はそっけない態度を取っていた。
 あまり親しい訳じゃないっていうのもあったし、何と言っても結のことをあまり話して欲しくはなかった。
「そう……最近、あまり学校に来ていないみたいだから」
「心配することはないだろ。結の調子が悪いのは今に始まったことじゃないし」
「だけど、心配よ。私ともあまり顔を合わせなくなったし……」
「俺とも顔を合わせないしな」
 その言葉に、高瀬は俺を睨み付けてきた。
「な、なんだよ」
「浅村くんのほうが、結のことを避けてるんじゃないの?」
「……そんなことはない」
 俺は目を逸らして、鞄を手に取った。
 そして、教室から出ようとすると、高瀬は俺の前に回り込んできた。
「なんだよ」
「あなたたち、兄妹なんでしょ? ちょっとは結のこと、見てあげなよ。
 友達の私ができないことでも、お兄さんの浅村くんだったらできることはあるんだから……」
 俺のことを睨み付けたまま、低く押し殺した声で言ってくる高瀬。
 だけど、俺は高瀬の肩にわざとぶつかるようにして、そのまま教室から出た。
 高瀬の言ったことなんて気にも留めないでいた俺。
 ただのおせっかい……このとき、俺はただそういう風にしか思ってなかった。

 それから三日後……二学期の終業式の朝。
 長い一日が始まった。

 3

 俺は自分の部屋で、昨日コンビニで買っておいたパンで朝食をとっていた。
 このときには朝飯を作ることも全くなくなって、お互いが近所のコンビニで買ったものを朝食にしていた。
 無論、夕食もそうだ。
 もう、帰宅の時や家でのリビングでも、ほとんど顔を合わせることだってなかった。
 寒さのせいで冷たくなってる缶コーヒーを飲み終わって、俺はそろそろ学校に行こうと鞄を手にして立ち上がった。
 その時、ドアが小さくノックされた音が聞こえた。
「……お兄ちゃん?」
 か細い声……結の声だ。
「あ?」
「ちょっと、いいかな」
「別に、いいけど」
 ドアを開けてやると、結が俺のことを見てにこにこ笑っていた。
 さっきの声とは正反対の、明るい笑顔。
 だけど、その笑顔は俺の遠い記憶にあるものとは違って、どこか違和感があった。
「何だ?」
「終業式だから、一緒に学校行こう?」
 人なつっこい笑顔じゃなくて……ただ、無理矢理ていう感じの笑顔。
「ああ、別にいいけど……」
 別に誰かと約束していたり、誘ってきた結を拒む理由なんてなかったから、俺はたまにはと思ってそう返事をした。
「それじゃあ、もう時間だから行くよ」
「ああ」
 俺はそれだけ返事して、部屋から出た。
 結は俺を待つようにして、階段の横で俺をずっと見ながら立っていた。
「何やってるんだよ」
「お兄ちゃんが来るの、待ってたの」
 嬉しそうに笑う結。
 だけど、俺は、
「ふうん」
 と言って、先に階段を降りていった。
 一生懸命ついてきてるのか、後からトントンっと階段を降りる音が聞こえてくる。
 俺は立ち止まることなく玄関に行って、そのまま靴を履いて外へ出た。
「あ、待ってよぉ」
 結がそう言いながら、慌てるように外に出てくる。
 そして、俺の横にぴったりついて、顔を覗き込むように見上げてきた。
 だけど、その表情は笑顔じゃなくて、笑っているっていう顔をつくっているだけに見えた。
「何だよ」
 そっけなく、結に言う俺。
 それでも結は、俺のことを何も言わず見続けていた。
「何だって」
「あ、あのね……」
 照れているか、焦っているかのように結は笑う。
 だけど、なんだかその笑顔が不自然で、俺はそれが苛立たしかった。
「言いたいことあるんなら、言えよ」
 そう言って、俺は結から視線を外すように前を見た。
「うん……」
 ちらっと横を見ると、結はまた以前のように俯いていた。
 だけど、俺は気にすることなくまた前を向き直した。
 しばらく、沈黙が続く。
「……お兄ちゃん」
 結の声。
 さっき、俺の部屋に来たときと同じようなか細い声……
 それでも俺は前を向いたまま、
「あ?」
 と、そっけない返事をした。
「私……私ね」
 そう言って、また黙り込む結。
 イライラがまた募る。
「はっきり言えよ。言いたいことがあるんだったら」
 思わず、強い口調になる俺だったけど、罪悪感みたいなものはなかった。
「うん……だから」
 沈んだ声のまま、か細い声で言う結。
 そして、俺のコートの袖が不意に引っ張られる。
 思わず反応した俺は、しょうがないなと思いながら結のほうを見た。
 ……また、不自然な笑顔。
「お兄ちゃん……あのね」
 小学生のときみたいな明るい感じは、今の結からは感じられなかった。
 なんだかぎこちない結の仕草が……はっきり言って嫌だった。
 小学生の俺だったら、きっと『何かあったのか?』とか言って、結に事情を聞いているはずだった。
 だけど、この時の俺は……
「話したいんだったら……俺よりも親しい友達がいっぱいいるじゃん。俺とは話しにくいから、言えないんだろ」
「えっ……」
「まったく……言えないんだったら、最初から俺のところに来るなよ」
 と、突き放すように言った。
 そして、結から目をそらす。
 これ以上、今は結と関わりたくない……そう思って……
 そのまま、結の手を振りほどいて先に学校へ行こうとした。
「お兄ちゃん!」
 だけど、後から足音をたてて結が追いかけてくるのがわかった。
 しつこいと思いながら、それに切れた俺は、「ついてくるなよ!」
 結に……そう、怒鳴りつけた。
 そのまま、俺は結のことを見ることなく、再び歩き出す。
 どのくらい歩いたんだろう。
 後から結が追ってくる気配がないことに安心して……俺は歩くスピードを速めた。
 バカだった俺は、それでなんかホッとしていたんだ……

「あー、終わった終わったっと」
 全ての授業が終わって、俺はため息をつきながら教室を出た。
 特にこの後の予定はなく、このまま家に帰ってゲームでもやるかと思っていた。
 そして、結の教室の前にさしかかったときだった。
「あっ……」
 結が教室から出てきたのが見えて、俺は思わず避けるようにして廊下の端に寄った。
 確かに、さっきの結とのやりとりを思い出して、なんだか気まずくなっていた。
 だけど、それよりも俺の意識が結を避けたがっていた。
 それでも、他の奴らがひしめいてる隙間から、結の顔がちらっと見えて……俺は一瞬固まった。
 俯いている結。
 誰とも目を合わせようとしないで、拒絶しているように、顔は地面を向いていた。
 俺が知っているりとはまったく違う結の表情が、俺にひどい違和感を感じさせた。
 だけど、声をかけることができないまま……結は俺の横を通り過ぎていった。
 そして、俯いているせいで顔を隠してる、長い髪の間から……

 頬に光る、涙が見えた。
 一筋の、細い涙……

 気のせいじゃない。
 確かに、頬が濡れていた。
 泣いている……
 俺の前では、結はずっと笑顔を見せて、怒ったり、喜んだりしていた。
 ずっと、泣き顔を見せることがなかった結が、今、泣いている……
 そう思っただけで……俺の心が握りつぶされるように痛んだ。
 結が泣いている理由がわからなくて……
 結の頬に流れていた涙の理由がわからなくて……
 ショックを受けた俺は、ただ、しばらくそこに立ちつくしていた。
 ただ、結がどうして……ということを、幾度も自問自答しているだけ。
 人がだんだんいなくなっていくのにも気付かず、一人で……
 そのときだった。

「まったく、トロいわよね〜」
 妙に明るい、女の子の声。
 それが、俺の意識をまた現実に引き戻した。
「ほんっと、何ヶ月もかけて、やっと泣いたんだから」
「ずっと笑ってるんだもんね。いくら言われてもさぁ」
 結の教室のほうから、それは聞こえていた。
 俺はここから動かずに、その声にただ耳を澄ましていた。
「体が弱くて、スポーツも出来なくて、泣けないなんて不憫だもんね〜」
「あたしたちが泣かせてあげたんだから、感謝してほしいくらいだよね〜」
「そうそう!」
 ……体が弱い?
「ただムカつくだけよ、ああいうのは見てるだけでも」
「ほんと、いじめ甲斐がないんだから」
 ……いじめ?
「兄貴にベタベタしちゃってさあ、いい気になってずっと笑ってたんだもん。いい気味よ」
「泣いてくれてすっきりしたわよ」
「体が弱くてトロいと、涙出るのもトロいのよ。きっと」
 そして、三人の女は楽しそうに笑った……

 ……このとき理解した。
 誰のことを言ってるのか……
 結にほかならないだろうと。
 そして、何が結にあったのか……
 きっと、こいつらに……
 俺は無意識のうちに、その教室のほうに歩いていた。
「な、なによ」
「……あ、あっ、浅村の兄貴よ、こいつ」
「はぁ?」
 中心になって笑っていた女が、とぼけた声を出した瞬間だった。
「このアマがぁ!」
 俺は右手で、そいつの頬を思いっきりはたいてやった。
 そのまま後に倒れ込む女。
 他の二人は、呆然と俺のほうを見ている……
 俺はその二人にも、同じように右手を繰り出した。
 女たちは派手に後ろに倒れ込んで、俺のことを涙を流しながら睨み付けている。
「な、なによぉ……」
 悪気無さそうにうめく女の頬を、もう一度ひっぱたく。
「俺の……俺の妹をよくも泣かしてくれたな。
 ……俺の妹に手を出すんじゃねぇ!」
 女だろうが何だろうが、もう構わなかった。
 ただ、こいつらが結を傷つけたっていう事実だけが、俺の頭の中を支配していた。
「……今度やったら、承知しないからな」
 俺はそう言って、教室から飛び出していた。
 ただ、今すぐ結のところに行きたくて……

 バカだと思った……
 朝のとき、結が何を話したかったかを理解していなかったことを。
 俺に一生懸命、何かを話そうとしていた結を、俺は自分から拒否した。
 あの結の作った笑顔が、何を意味していたのかも。
 その結の笑顔が嫌で、俺は断ち切るように結の横から去った。
 そして、今まで結にとり続けていた自分の態度のことを……
 自分から、結を疎ましがって引き離そうとしていたことを……

 あいつには、俺しかいなかったのに。

 ごめん、結……
 心の中で幾度もそう呟きながら、俺は家への道をとにかく走っていた。
 地面に踏み固められた雪に足をとられることなんて、気にしていられなかった……

「結!」
 俺はドアを強引に開けて、家の中に入った。
 玄関には、結の靴が綺麗に脱ぎ揃えられていた。
 構わず、俺は靴を脱ぎ散らかして玄関を上がって、そのまま階段を上っていく。
 そして、俺は左の方にある結の部屋のドアを開けようとした。
 だけど、鍵がかかっているのか、いくらやってもドアは開こうとしない。
 俺は鞄を投げ捨てると、ドアに幾度も当て身を喰らわせた。
 そして、ドアノブの部分がだんだんひび割れて……
「うわっ!」
 大きな音をたてながら、ドアは勢いよく開いた。
「ゆい……!?」
 飛び込んだ俺の目に飛び込んできたもの。
 それは……

 横たわっている、結の体。
 赤みの消えた、結の穏やかそうな顔。
 涙の流れた跡が残る、結の頬。
 力無く伸びきった、結の腕。
 赤黒い染みがついた、水色の絨毯。
 その横に落ちている、血塗れのカッター。
 そして……
 手首から流れる、赤く流れている血……

「ゆい……?」
 俺は、倒れ込んでいる結の体をそっと揺すった。
 ぴくっと、結の肩が震える。
「ゆい……結!」
 だけど、結の唇は震えたまま、開こうとはしなかった。
「結……なにやってんだよ、お前!」
 どうしようもない俺の感情を、力無い結にぶつける。
 俺は懸命に揺すったけど、結の反応はだんだん弱まっていく。
「畜生……」
 呟いて、結の部屋のコードレスホンを手に取った俺は、急いで一一九番への電話をプッシュしていた……

 その夜、俺は母さんと病院の待合室にいた。
 救急車で運ばれた結は、すぐに集中治療室に運ばれて手術が開始された。
 母さんが幾度も俺に理由を尋ねてきたけど、それに答えることなんて出来なかった。
 俺が追いつめてたなんて……
 あの結のすがりつくような目……作ってまで笑みを浮かべていたのが、どうしても忘れられない。
 きっと、俺に救いを求めていたんだろう。
 だけど、その救いの求めを蹴って、俺は結を突き放してしまった。
 俺を慕っていた結を傷つけて、結果的に生死の境をさまよわせてしまっている……
 俺が、もっと早く気付いていれば……
 俺が、小学校のときと変わらずに結と接してあげていれば……
 そんな自責の念が、俺の頭を幾度も巡っていた……

 手術は終わって、あとは結の意識が戻るかどうかを待つだけだった。
 容態は安定している、早期発見でよかったっていう医者の説明が安心させてはくれたけど……気を抜くことはできなかった。
 今も、結は治療室の中で眠り続けている。
 もしも、結の命が……
 そう思うだけで、俺の心は鬱になった。
 考えたくはなかったけど、あの光景を思い出す度に、そのことがちらつく。
 そんなことを繰り返している時だった。
 治療室のドアが開いて、医者がこっちのほうにやってきた。
 俺と母さんは立ち上がって、医者の顔をじっと見つめた。
 すると、医者は表情を緩ませて、口を開いた。
「娘さん、意識が戻られましたよ。はっきりとしてます」
 その言葉を聞いた俺は、声を上げるよりも早く、医者の横をすり抜けて治療室の中に駆け込んだ。
 規則的な心電図の音が響く中、結は透明なビニールカーテンに囲まれたベッドで横になっていた。
「結!」
 ビニールカーテンの中に入って、俺は結の顔を覗き込んだ。
「……お兄ちゃん?」
 俺のことに気付いた結が、なんだか驚いた風に俺を見た。
「結……」
「どうしたの? お兄ちゃん、そんな顔して。なんだか変だよ?」
 結は笑顔を浮かべて、からかうようなことを言ってきた。
「結……ごめん……」
 俺は結のことを抱きしめながら、そう呟いた。それに、いつのまにか涙が頬を伝っているのもわかった。
「どうしたの? お兄ちゃん……なんでか分からないけど、いつもみたいに笑ってよ」
 小学生のときと変わらない、にこにことした笑顔……懐かしいそれを見て、俺の心がぐらっと動いた……
「ごめん、俺のせいでこんな目に遭わせて……追いつめて……」
 謝罪の言葉を、結に告げる俺……
 そんな俺の頭を、結の小さな手が撫でさすってくれた。
 見上げると、結はさっきから変わらない笑顔で俺を見てくれていた。
「何があったのかわからないけど……私は平気だよっ」

 結の記憶が、抜け落ちていた……
 後々調べてみると、結の記憶からは夏頃から今日昼間までの記憶が、すっかり抜け落ちていたことが判った。
 結が無意識のうちに、それを望んでいたんだろう……
 俺が今までやってきたこととかを、忘れるために。
 それだけ、俺は結に辛い思いをさせてきたっていうことだろう。
 俺はただ、結に謝り続けたかった。
 だけど、結はそのことを覚えていない。
 だから……俺はこのとき誓ったんだ。

 もう、どんなことがあっても、結のことは傷つけない。
 ずっと、結を守り続ける。どんなに離れることがあっても、ずっと。
 それが、 結にしてきてしまったことへの、俺がしてやれる償い……
 次の日から、その償いが始まった。
 結のそばに居続けること。
 学校へ行くときも、部活で帰りが遅くなったときでも家に早く帰って、結と一緒にいられる時間を増やしてあげた。
 それからは、あの三人組も結をいじめるようなことはなくなった。
 そして、結にいろんなことを教えてあげること。
 結が失った記憶の分を、俺が教えてあげられることで埋めてあげよう、そう思ったんだ。
 ……俺の将来を犠牲にしてでも。

 4

 このカッターは、その誓いの証明だった。
 結が目覚めて、家に帰った後……俺は結の部屋に行って、このカッターを拾った。
 それを大事にしまって、俺の机の奥底に隠しておいたんだ。
 ……捨てることはできなかった。
 結に与えてしまった絶望っていう戒めを忘れないため……そして、結との約束を思い続けるために、この手に留めておきたかった。
 だからこそ、奥底に隠して……結に絶対見つからないためにと思って、ずっととっておいた。
 ……すっかり、錆び付いてるけどな。
 これを見るたびに、結への約束の強さを思い出すのと当時に……自己嫌悪の念が生まれてくる。
 俺はまたこれを包んでおこうと、ティッシュの箱を取ろうと、出窓に手を伸ばした。
「お兄ちゃん、入るよ〜」
 ……やばいっ!
 突然の結のノックに慌てた俺は、手に取ったティッシュの箱を急いでカッターの上に乗せた。
 血塗れのティッシュも、軽く丸めてゴミ箱へ放り投げる。
「い、いいぞ」
 ちょっとどもったけど、それでもドアの向こうにいる結に返事した。
 ゆっくりとドアが開かれて、結がコーヒーカップを持って入ってきた。
「はい、コーヒーだよ」
 カップを机に置いたのを見て、俺はそれを手にとって一口すすった。
 慌てている心を落ち着かせるのに、ちょうど良かったと言ってもいい。
 ちょっと熱めのコーヒーだけど、それが俺の喉を潤してくれた。
 カップから口を離した俺は、ため息をついて結のほうをちらっと見た。
「ねえ、お兄ちゃん」
 目が合うのと同時に、結が俺に話しかけてきた。
「ん、なんだ?」
「……どうしても、教えてくれないの?」
 結の質問に、俺はまた動揺した。
「また、そのことか」
「だって……香織とお兄ちゃんが言い争うぐらいのことなんでしょ……? それに、私が原因なら……知りたいのが、当然だよ」
 まっすぐな目で、俺を見つめてくる結。
 そんな結をまっすぐ見ていることができなくて、俺は目を逸らした。
「ねえ……お兄ちゃん、どうして言ってくれないの? 香織は、私のせいだって怒鳴りながら言ったんだよ? それを、私は関係ないって今言われても……」
 ……まだ、そんなことを考えていたのか。
「あのなぁ結、お前は知らなくてもいいことなんだよ。だから、俺が話すことはないんだ」
「だけど……私たち、兄妹でしょ? だったら……」
「結」
 俺は結の言葉を遮って、軽く睨み付けた。
「……知らなくて幸せだっていうことも、いっぱいあるんだ」
「でも、お兄ちゃん、私……!」
「やめろ!」
 思わず怒鳴りつける俺を、結はびくっとしながらまた睨み付けてくる。
 ……学校帰りのときよりも、酷い状況になっていた。
「なんで!? 私が原因ならはっきり言ってよ! 私が悪いんだったら、二人に謝るから」
「お前はそんな必要がないんだ、そんなこと聞いてくるな!」
 さっきまで過去のことを思い出していたせいか、俺の気持ちは苛立たしくなっていた。
 語調も、だんだん荒くなっていく……
「どうして? 私に関係あるなら言ってよ!」
「うるさい!」
 俺は机の上を手で払いながら、そう叫んだ。
 いい加減にして欲しくて……もう止めてほしくて……
 手の甲に何かが当たったことにも気付かないまま……
「……お兄ちゃん」
「これ以上……俺の負担になるようなことなんかするな!」
 俺がそう言った瞬間……
「…………!」
 結の顔が、ひどく引きつった。
 ……しまった。
 言っちゃいけない言葉だった……
「……ご、ごめん……」
 俺は呟いて謝ろうと、結のことを正面から見ようとした。
 だけど、結の表情は引きつったまま、別のほうを向いていた。
「……?」
 俺が、結の向いているほうに目をやると……
「あっ……」

 そこには……
「ゆ、結……」
 血塗れのカッターナイフが、血のかすとともに落ちていた。
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