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ガラスのラビリンス

第4章

 1

「配布物はこれで全部配ったな。
 それじゃあ、今日のホームルームはこれで終わりだ。お前ら、明日は風邪引いたりするなよ」
「はぁいっ」
「それじゃ、帰っていいぞ」
 先生のその声で、教室中がざわめきだす。
 みんな、卒業式の一日前を惜しむみたいにお喋りとかを始めた。
 私は……今はそんな気分になれなかった。
 窓際のほうに目を向けると、お兄ちゃんは外のほうを見たまま、ぼーっとしているみたいだった。
 さっきから、ずっとあんな感じ。
 時々ためいきをついて、私のほうをちらちら見ていたりしてる。
 今朝のこと、それに今日のことが、よっぽどこたえたみたい。
 私も視線を感じてお兄ちゃんのことを見たりするけど、その度に、お兄ちゃんはすぐに目を逸らしてまた窓の外を見ていた。
 私に心配かけたくないからなのかなぁ……
 だけど、そんなことされると、私のほうが心配になってきちゃうよ。
 お兄ちゃんから目を離して、私は手元の荷物をまとめることにした。
 桜庭くんの誘いも断ったし……今日は、このまま帰ろう。
 きっと、お兄ちゃんもまた香織と会うんだろうし。
 掃除の疲れが取れたら、行こう。
 鞄を閉じて、私はそれによりかかった。

 お兄ちゃん、混乱してるんだろうなぁ。
 けど、それはしょうがないと思う。
 私だって、このことに気付いたとき……すっごく戸惑ったもの。
 ずっと同じ時間の中にいるなんてありえないことだし、それをずっと意識してなかったっていうことも。
 それに……私たちがこうやって時間の中に閉じこめられていることだってそう。
 昨日までとほとんど同じ事ばっかりが、目の前で起きるんだから。
 混乱しないほうが、おかしいのかもしれない……

「あっ……」
 目を上げると、お兄ちゃんが香織に話しかけているのが見えた。
 何を話してるのかはわからないけど……お兄ちゃんは苦笑いしてて、香織もなんだか苦笑いしてるみたいに見える。
 一体、なに話してるんだろ。
 しばらくして、香織はお兄ちゃんの席から離れてこっちの席のほうにやってきた。
「ねえ、結」
「どうしたの? 香織」
 椅子に座りながら話しかけてくる香織の表情は、なんだか曇っていた。
「浅村くん、何かあったの?」
「えっ?」
「なんだか元気無さそうだし、私と話してても上の空だったみたいだし……」
 そう言って、香織はため息をついた。
「うーん……今日、ずっとあんな感じだったし……よく分からないよ」
「そう……なら、いいんだけど」
「何か用事でもあったの?」
「ううん、別に……ちょっと、二人で話したかっただけ」
 香織がお兄ちゃんに何を話したかったかは、よくわかってる。
 お兄ちゃんも、わかってるはずなのに。
「浅村くん、調子悪いから結と一緒に帰るっていってたわよ」
「そ、そう?」
「まあ……いつでも話せるだろうし。浅村くんとは同じ大学だし」
「…………」
 笑顔で言う香織。
 だけど、私は笑える気分にならなかった。
 お兄ちゃん、わかってるから断ったのかなぁ……
「結、どうしたの?」
「な、何でもないよ」
「そう……じゃあ、私はそろそろ帰るわね」
 香織はそう言って、鞄を手にして席を立った。
「あ、うん。また明日ね」
「あまり無理しちゃだめよ、明日は卒業式なんだから」
「わかってるよぉ」
「ふふっ、じゃあねっ」
 私に手をフリながら、香織は教室の外に出ていった。
 少し、寂しそうな笑顔を浮かべながら……
 香織、やっぱり言えなかったのがショックだったんだろうな……
 そう思いながら、私はまた顔を鞄に埋めた。
「結」
 その声に顔を上げると、お兄ちゃんが私の席の前に立っていた。
「あ、お兄ちゃん……」
「そろそろ帰るぞ」
 お兄ちゃんは、まだボーッとしてるみたいな言い方で私にそう言った。
「うん、そうだね」
 私は鞄を持って、ゆっくり立ち上がった。
 まだ掃除の疲れが残っているけど、今はとにかくお兄ちゃんに話したいこと……聞きたいことがいっぱいあった。
 私が立ち上がったのを見て、お兄ちゃんが歩き始める。
 それを追うみたいに、私もお兄ちゃんの後を歩き出した。

「ちょっと遠回りするけど、いいか?」
 お兄ちゃんはそう言って、いつもとは違う道を行こうって提案した。
 別に拒否する理由もなかったから、私はすぐにいいよって言って、お兄ちゃんの後をずっと歩いていった。
 ちょっと急いでるみたいだったけど、それでもお兄ちゃんは時々立ち止まって、休む時間をくれたりした。
 その度に、お兄ちゃんは空を見上げて、ため息をついてたりしている。
 そんなお兄ちゃんを見ていて、私はなんだか話しかけづらかった。

 私とお兄ちゃんは、無言のまま歩き続けた。
 それでも、なぜか重苦しい雰囲気とかじゃなくて……むしろ、まわりの風景とかを見て心を落ち着かせようって感じだった。
 私にもお兄ちゃんにも、今はそれが必要なのかもしれない。
 お兄ちゃんは、今の状況を把握するために。
 あたしは……昨日みたいなことを、しないように。
 今歩いてる場所は、見ているだけで心を落ち着かせてくれる。
 雪がまだ積もり残っている道に、雪化粧して真っ白になってる木々。
 誰も踏んでなかった雪を踏む度にする、さくさくって音が気持ちいい。
 桜の木の隙間からの夕陽の光に、その雪がきらきらと輝いてる。
 私たちがよく歩いていたことのある……子供の頃、お兄ちゃんと一緒に歩いた道。
 そう。
 昨日、私が倒れていたっていう道。
 よくは覚えていないけど、この道に入り込んだっていうことは、記憶の片隅に残ってる。
 この道をゆっくり歩きながら、私たちはその風景を見ていた。
 小学校を卒業するまでは、今みたいに一緒に歩いていたんだよね。
 前と違って、人通りもなくなっちゃってるけど、やっぱり懐かしいよ。
「……風、冷たくなってきたな」
 立ち止まったお兄ちゃんが、空を見上げながらそう呟いた。
 確かに、吹いてる風は頬がちょっと痛くなるほどになってた。
「そうだね」
「雪、また降り出しそうだな」
「うん」
 風のせいか……流れてる雲のスピードが、速くなってた。
 今まで過ごしてきた今日と、同じように。
 それからまた、お兄ちゃんは黙り込んだ。
 歩く道は長いけど、お兄ちゃんと一緒に歩いているだけで、なんだか楽しかった気がした。

 2

 私たちが家に着く頃には、もう空は真っ暗になっていた。
 リビングに入った私は、コートを脱ぎながらお兄ちゃんのことを見てみた。
 お兄ちゃんは鞄も下ろさないで、コートを着たままソファに腰掛けている。
 今朝、私が被っていた毛布を指でいじってて……なんだか、ちょっと恥ずかしいな。
 私は、今朝お兄ちゃんがお茶をいれてくれたお返しにハーブティーをいれてあげることにした。
 私はキッチンに立って、ティーカップを棚から取り出した。
 そして、電気ポットからお湯を注いで、カップにハーブティーのティーパックを入れた。
 それを二つ、リビングに持っていく。
 お兄ちゃんはうつむいたままで、時々ため息をついている。
「お兄ちゃん、お茶いれたよ」
 ティーカップを置いて、お兄ちゃんにそう言う。
「あ……ありがと」
 ちょっと顔を上げて返事したけど……お兄ちゃんはすぐにまたうつむいちゃった。
 しょうがないかな……やっぱり。
 そう思いながら、私は窓の外に目を移した。
 また、雪が降ってる。
 今までと全く同じ、暗い空から静かに降ってくる雪。
 ……雪は大好きだけど、この降り方を見る度に、なんだか憂鬱になる。
 何度も見すぎたから……この雪は。
「なあ、結」
 突然のお兄ちゃんの声に、私はびくってなって振り向いた。
 お兄ちゃんは顔を上げて、私のほうを見ている。
「……何?」
 私はソファに座って、お兄ちゃんに問いかけた。
 お茶を一杯のんで、またため息をつくお兄ちゃん。
「……ほんとだったな、結の言ってたこと」
「うん……」
 私も頷いて、お茶を一口飲んだ。
 冷たかった体が、あったかくなっていくのがわかる。
「卒業式予行があって、後始末があって、掃除があって……呼び出されて。まるで、巻き戻してまた再生するビデオみたいだ。
 みんなが話しかけてくる言葉もほとんど同じだし、机の中に入ってる物も、卒業式予行の内容も、みんな……同じだった。
 最初、信じられなかったけど……結、お前の言うとおりだったよ」
 いっぺんにそう言ったお兄ちゃんは、またためいきをついて、軽くうつむいた。
「うん……」
 私も、ただ頷くことしかできなかった。
「天気も同じだし、寒さも同じ……なんなんだよ、本当に。訳分からねえよ……」
「お兄ちゃん……」
「なんでこんなことになったんだよ……ずっと同じ日にいたなんて。
 どうして、途中で気付かなかったんだよ……何度も同じ日を繰り返していたんだから、わかるはずなのに」
「多分……わからなくなってたんだよ。起きたことをずっと夢だと思って済ませてて、また同じ日を繰り返してたから、麻痺してるみたいになって……」
 私はそうだった。
 何度も同じ事を繰り返してても「ああ、夢だったんだなぁ」っていうことで済ませてて、また同じ日を繰り返して……そのループだったから。
「じゃあ、何で俺達だけが気付いてて、他の奴らは気付かないんだよ」
「お兄ちゃん……よく考えてみて。
 私たち、学校で何度も掃除してるよね」
「それが何だよ」
「だから、同じ日を繰り返してるのに、どうして何度も掃除する必要があるの?」
「それは……」
「それに、桜庭くんにしたってそう。昨日、お兄ちゃんが喧嘩したって言ったけど、全く傷なんてなかったし、何も言ってこなかったじゃない。
 だから……」
「もしかして、お前……
 俺達だけが、この時間を繰り返しているっていうのか?」
 お兄ちゃんの言葉に、頷く私。
「そうだと思う……だって、私たちはちゃんと覚えてるじゃない。今まで繰り返した今日のこと、全部」
「もしもそうだとして……どうしてそうなったんだよ」
「それは……」
 私は思ったことを言おうとしたけど、すぐに口をつぐんだ。
 思い当たりは、ないわけじゃない。
 私たちが迷い込んだ最初の夜……私が願ったこと。
 そして、昔からお兄ちゃんとしていた、約束のこと……
 だけど、お兄ちゃんがそれを信じてくれるとは思わなかった。
「よく、わからないの……」
「そうか……で、結はどうしてこのことに気付いたんだ?」
「…………」
 それは……どうしても言えなかった。
 だって、言いにくいもん……あのことは……
「何となくだけど……そう思ったの。
 それを確かめるために、昨日みたいなことをしちゃったんだ……」
「……そうか」
 しょうがないなっていう風に苦笑するお兄ちゃん。
「ごめんね……昨日は自分勝手なことして。わかっていたけど、どうしてもこの時間の中から抜け出したかったから……」
「今までと違うことをすれば、抜け出すことができるかもしれない……そういうわけか」
「うん」
 今まで、ずっと同じ日の繰り返しだった。だけど、それを崩せば元の日常に戻れるんじゃないか……そう思って、私はああいう行動に出た。
 結果は……私もお兄ちゃんも、いたずらに傷つくだけだったけど。
「本当に、本当にごめん……お兄ちゃんに心配かけて、怪我までさせて……」
 だから、私はただ謝りたかった。こんな行動に出たことを。
「いいんだよ。お前が無事だったんなら……それでいいんだ」
 そう言って、お兄ちゃんは私に笑いかけてくれた。
 その笑顔が、私を少しほっとさせてくれた。
 お兄ちゃんの、優しい笑顔。
 ちっちゃい頃から、ずっとこの笑顔を見て私は育ってきた。
 怒らないで、この笑顔をしてくれたのがとても嬉しい。
「それにしても……成長したな、結も」
「と、突然何よ」
「いやな、結がこんなに頭が切れるとは思わなかったからさ。いつもぼーっとしていたし」
「あっ、ひどいよー……」
「けど……まあ、体のほうも、成長していたみたいだし」
「……!」
 お兄ちゃんの言葉の意味に気付いて、私は思わずお兄ちゃんから目を逸らした。
 ……うぅ、恥ずかしいよぅ……
「あははっ、冗談だって」
「ぷぅ……」
 私はふくれる真似をしながら、またお兄ちゃんのほうに向き直った。
「だけど……感謝してるよ、お兄ちゃん」
 私も、いつもみたいに笑い返す。
 小さい頃からの、私たちの儀式みたいなもの。
「だから、お兄ちゃん……方法見つけて、早くこの繰り返しから出よう? もうこれ以上、こんな繰り返しなんて嫌だから、ね?」
「…………」
 だけど、お兄ちゃんは私の事を見たまま、ただ黙っていた。
「……お兄ちゃん?」
「……あ、ああ。悪い。
 そうだな……早くこの日から抜け出さないと……」
 だけど、お兄ちゃんの声はどこか上の空みたいで……私の気持ちが届いてるかどうか、わからなかった。
 私はどうしてもここから出たいと思ってるのに、お兄ちゃんは、曖昧にしか言ってくれない。
「お兄ちゃん……
 早く抜け出そうよ……ね?」
「……ああ」
 もう一度問いかけてみても、乗らない返事。
 どうしてかわからなくて、なんだか気持ちがやきもきする。
 もしかして……
 ううん、やめよう。そう思うのは。
 きっと、お兄ちゃんだってそう思ってるはずなんだから。
 私は冷たくなったお茶を一口飲んで、席を立った。
「それじゃあ、ご飯作るから」
「ああ、頼む」
 まだ生返事に聞こえる。
 私は気のせいだと思って、キッチンの方に歩き出した。
 きっと、お兄ちゃんも抜け出したいって思ってるはずだから。

 3

「ふう……」
 蛇口を閉めながら、私はため息をついた。
 全部の食器を洗い終わって、あとはしっかり拭くだけ。
 お母さんの帰りが遅かったり、帰ってこなかったときは、私とお兄ちゃんはこうして交代で家のことをやるようになった。
 もちろん、お母さんからしっかり教えてもらったんだけどね。
「結、何かやることはあるか?」
 時々、こうやってお兄ちゃんが覗き込んで聞いてきたりするけど、
「ううん、大丈夫。一人で出来るから」
 そう言って、私はお兄ちゃんをリビングに戻したり、部屋に戻ることを促したりする。
「そうか……じゃあ、リビングに戻ってるからな」
 と、お兄ちゃんはキッチンから出ていく。
 どうしてお兄ちゃんの手伝いを断るのかっていうと、一人暮らしをするのに必要なことは、やっぱり自分の手でやっておきたいから。
 いくら、お兄ちゃんが優しくしてくれても、これだけは譲れない。
 私は布巾を取って、まだ濡れてる食器を拭き始めた。

 それにしても……
 どうして、お兄ちゃんはあんなに私のそばにいようとするんだろう。
 そんな疑問が、昨日からずっと沸き上がっている。
 私への接し方とか、話し方とか、どんなときでも私と一緒にいたい……そういう風に感じる。
 だけど、昔のお兄ちゃんの態度からは考えられないことだった。
 今みたいな笑顔を浮かべてくれるんじゃなくて……夢の中の時みたいな、まるで睨み付けるように私を見ていた頃からは。

 それは、私が中学一年生のとき。
 入学してしばらくは、私と一緒に登校したり、遊んでくれたりしていた。
 今みたいには優しくなかったけど、それでも私のことを見ていてくれて……
 熱が出たら、一晩中私のそばについてくれてたり、氷枕を用意してくれたり、濡れタオルをおでこに乗っけてくれたり……焦げてたりしていたけど、ごはんまで作ってくれた。
 調子が良くて学校に通うときも、私の歩きがいくら遅くても歩幅を会わせて歩いてくれた。
 なによりも、とろかった私のことを文句も言わないで見ていてくれた。
 そんなお兄ちゃんが、小さい頃の私にはとっても自慢だった。
 だけど、いつからか私とは話さないようになった。
 どうしてか、理由はわからないけど……それがすごく悲しくて、私は何度もお兄ちゃんのそばにいようとした。
 何も言わなかったけど、お兄ちゃんは「あまり近づくな」っていう風な顔をしていたりして……秋頃には、私を避けるようにまでなった。
 それでも、意地になってお兄ちゃんの気を引こうとする。
 だけど、その度にお兄ちゃんは嫌そうな顔をして、私から離れていった。
 そして、いつしかお兄ちゃんと私はまったく話さなくなった。
 ……ううん。目を合わせることも、ほとんどなくなった。
 私が病気になっても部屋に入ってくることはなくなって、私の世話をしてくれることもなくなって……ずっと待っていても、お兄ちゃんは来てくれなかった。
 いくら話しかけても、いくら気を引こうとしても。
 たった一人、信じていられたお兄ちゃんが離れちゃって……だから、私はすごく悲しくなって……それから先のことは、ほとんど覚えていない。
 それが、春になってから、お兄ちゃんはまた私と接してくれるようになった。
 前みたいに……ううん、前よりもずっと優しく。
 それからが、今のお兄ちゃんの始まりだった。
 一番の変化は、私によく話しかけてくれるようになったことかな。
 あまり学校に行けなかった私にとって、話し相手っていったら、お兄ちゃんか親友だった香織ぐらいだったから。
 それに、勉強を教えてくれたり、料理を教えてくれたり……その前までのことが嘘みたいに、いろんなことをしてくれるようになった。
 私はそれが嬉しくて、ずっとお兄ちゃんのそばにいようって、そう思ったことだってあった。

 だけど、高校卒業間際になっても変わらないお兄ちゃんのことを見て……私は、なんだか心配になってきちゃった。
 私のことばかり構って、自分のことは棚に上げて……
 嬉しことは嬉しいんだけど、お兄ちゃん自身が犠牲になるのは……はっきり言って嫌。
 私がいなくなっても平気なのかなぁって、不安になるときがいっぱいある。
 ほんと……大丈夫なのかなぁ。
 ため息をつきながら、私はそう思った。
 最後のお皿を拭き終わって、戸棚にそっとしまう。
 そして、戸をそっと閉めて、枠にかかってるタオルで手を拭いた。
 冷たかった手が、だんだん温かくなっていく。
 お湯で洗っていても、すぐ冷たくなっちゃうんだもんね……

 ぴろりろりろっ ぴろりろりろっ……

 と、リビングのほうで電話が鳴り始めた。
 私が電話を取ろうと、急いでリビングから出ようしたとき……
「はい、浅村です」
 お兄ちゃんが、もう先に出て応対していた。
「あ、俺だけど……ああ、別に今、調子は悪くないよ」
 誰からだろう。お母さんから……かな?
「心配だった? ああ、ごめんな。お前に呼ばれたのに、行けなくて……ああ、大丈夫」
 そう言って頷いた後、お兄ちゃんは私のほうをちらっと見た。
「ああ、結か。ちょっと待ってくれな」
 お兄ちゃんは受話器を離すと、私のほうにちょいちょいって振りながら向けてきた。
「結、電話だ。高瀬から」
「香織から?」
「ああ。お前に代わってくれって」
 香織から……何か、話しかなぁ。
「結……結!」
「あっ、ごめん」
 昨日までと違うことに戸惑って、私は思わずぼーっとしちゃった。
「んーと、上のコードレスで話してもいいかな」
 私はしばらく考えてから、お兄ちゃんにそう切り出した。
「ああ、別にいいけど」
「じゃあ、上に行くから、保留押しといて」
「わかった」
 お兄ちゃんが保留ボタンを押したのを確認して、私はリビングを出て階段を上がった。
 そして、自分の部屋に入ってコードレスホンを取った。
「もしもし」
『あ、結?』
 私が話しかけると、受話器からは香織のちょっと沈んだ声が聞こえてきた。
「うん、そうだよ」
『こめんね、こんな夜遅くに』
「えっ……今、何時?」
 さっきまでずっとキッチンに立っていたせいか、私は今の時間がすっかりわからなくなっていた。
『もう九時半よ』
「あっ、もうそんな時間なんだぁ」
『そう。もうすぐ結は寝る時間でしょ?』
「うん。いつもはね」
『悪いわね、こんな時間に』
「ううん、大丈夫だよ」
 私はそう言って、ベッドにそっと腰掛けた。
「それで、何か用事?」
『うん……浅村くんのことなんだけど』
「お兄ちゃんのこと?」
『ええ。浅村くん、今日調子悪かったみたいだけど、大丈夫なの?』
 香織の言葉にちょっと考え込んだけど……あんなことが正直に言えるわけなくて、
「平気だよ。ちょっと風邪ひいただけみたいだから」
 そう、ごまかして言っちゃった。
『そう……ならいいんだけど』
 香織の声がちょっと明るくなった。
 本当に心配していたんだぁ。
「心配した?」
『うん、なんか学校で元気なかったみたいだったから』
「大丈夫だって。そんなに悪くなってないんだから」
『結がそう言うなら、大丈夫ね』
「ただ、お兄ちゃんって時々自分のことをごまかして私の世話してくれたりするから……」
『そうよね。特に、結のことがからむと』
「ちょっとは正直に言って欲しいんだけどね」
 そう言って、私たちはお互い苦笑した。
『それにしても、いいわよね……羨ましいわ」
「えっ? 何が?」
『結、浅村くんといつも一緒にいられたんだもの』
「だって兄妹だもん」
『それはそうだけど、浅村くんと一緒にいれるのって、嬉しいでしょ?』
「だけど……わたし、もうすぐ東京に行っちゃうから」
『やっぱり、寂しい?』
「うん。それに、お兄ちゃんのことも心配だし……」
『大丈夫よ、浅村くんなら。ずっと結のことをちゃんと守ってあげられたんだから、一人でも大丈夫なはずよ』
 香織、良く見てるなぁ。
 やっぱり、お兄ちゃんのことが好きだからずっと見ていられたのかな。
「そうだよね」
『だから、結も心配しないで東京に行ってらっしゃい』
「わかった。お兄ちゃんのこと、よろしくね」
『ええ、もちろん。
 それじゃあ、あまり電話長いのも悪いから、そろそろ切るね』
「うん。じゃあ……また、明日」
 いつ、卒業式を迎えられるかわからないから、私はそう言った。
『うんっ、また明日』
 香織がそう言ったのを確認して、私はコードレスホンのスイッチを切った。
「ふうっ」
 ため息をついて、コードレスホンを充電器に置く。
 私は、そのままベッドに寝転がった。
 と、ドアがノックされる。
「はあい」
 ドアを開けて、お兄ちゃんが顔をひょこっと出す。
「電話、終わったのか?」
「うん、終わったよ」
「そっか……で、高瀬はなんだって?」
「お兄ちゃんが風邪ひいてるんじゃないかって、心配してた」
「はぁ? あいつが……ねぇ」
 お兄ちゃんは苦笑するみたいにして言った。
 私もちょっと苦笑したけど、すぐに気を取り直して、また口を開いた。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん? 何だ?」
「お兄ちゃん、香織に呼ばれてるんだよね?」
「ああ、そうだけど……どうしたんだ?」
「もしも……もしも、明日も今日のままだったら、ちゃんと香織に会って、話を聞いてあげてね」
「……はぁ?」
 聞き返してくるお兄ちゃん。
 だけど、私は無闇に言った訳じゃない。
 少しでも、香織の気持ちを知って欲しかったし……そうすれば、きっとお兄ちゃんは香織と仲良くしてくれるはずだと思ったから。
 私がいなくてもお兄ちゃんがしっかりできるように……それに、二度と香織にあんな泣き顔をさせないように。
「お兄ちゃん……お願いっ」
 私は体を起こして、お兄ちゃんに深く頭を下げた。
「ゆ、結が言うなら……いいけどさ」
「本当? お兄ちゃん、お願いねっ!」
「ああ、わかったよ。高瀬と会って話をすればいいんだな」
「そういうことっ」
「まあ、いいけどさぁ」
 仕方ないなあって顔で、またお兄ちゃんが苦笑する。
「あ、リビングとかの電気は消しておいたから。もう下に行かなくていいぞ」
「ありがと、お兄ちゃん」
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみ〜」
 私がそう言うと、お兄ちゃんはそっとドアを閉めて出ていった。
 私はまた寝転がって、天井を見上げた。
 今度こそは……平和なまま、明日を迎えられればいいんだけどなぁ……

 4

「結っ、じゃあね!」
「うんっ、お疲れさまぁ」
 教室を出ていく友達に、私は軽く手を振った。
 ふぅ……あったかーい。
 私は教室の中で、ぼーっとしていた。
 窓から入ってくる夕陽の光が、なんだかあったかく感じる。
 本当は、もうすぐ春なんだもんね。
 鞄に顔を埋めながら、外を眺めてみる。
 森には雪がかぶっているけど、この間までみたいに真っ白っていうわけじゃない。
 ちょっとずつ、木の枝とかが見えるようになってきた。
 ……昨日までは、こういうのを見てる余裕、なかったものね。
 そう思うと、私はちょっと苦笑した。

 今、私は二人……お兄ちゃんと香織が戻ってくるのを待っていた。
 十分前、私は二人を教室から送り出した。
 昨日言ったことを、お兄ちゃんはちゃんと守ってくれてるかなぁ。
 ちゃんと、香織と話をしてくれてるのかな……
 それがすごく心配だった。
 また、この間の繰り返しだったらだったら嫌だし、二人とも傷つくだけなのは嫌だから。
 それに……私のせいで二人の仲が悪くなるのが怖かった。
 私自身が、とても。
 だから、今回のことがうまくいってくれれば……そう思ってる。
 きっと、大丈夫なはずだよね……
 お兄ちゃんは、私がいなくなったらどうなるかわからない。
 私がいなくなることでだらしくなっちゃうかもしれないし、ちょっと不安になる。
 だから、私たちのことをよく知ってる香織に、お兄ちゃんのことをどうしても頼みたかった。
 香織は、お兄ちゃんのことが好き。
 私とは違う……肉親じゃない人だけが持てる「好き」を、香織は持ってる。
 私はそれを持っちゃいけないから、香織がお兄ちゃんにそれで優しくして欲しい。
 私がいなくても、これで大丈夫なはずだから。
 だって……私の大切なお兄ちゃんと、私の一番の友達だもん。

 しばらくたって、教室の中には私ひとりだけになった。
 ちょっと寂しげだけど、こういう教室にいるのもなんだかいいかもしれないし。
 けど……なんだか、うとうとする……
 あったかすぎで、ぼーっとしちゃうし。
 だけど、ちゃんとお兄ちゃんたちのことを待たないとね。
 私はぐーっと伸びをして、眠気を吹き飛ばそうとした。
 だけど、体に染み込んだ眠気はなかなかとれてくれない。
 このままだと、なんか寝ちゃいそう……

 あ、なんか足音がしてきた……
 お兄ちゃんたち、話終わったのかな?
 私は立ち上がって、ドアの方に目を向けた。
 だんだん足音が大きくなって……教室のほうに近づいてくる。
 あれ? 走ってるのかな……
 とっても速く近づいてくる。
 と、勢いよく教室のドアが開かれて、香織が入ってきた。
「あ、おかえ……」
 だけど、その表情は……ひどく怒ってるみたい……
 香織は私のほうを見もしないで、隣の席に置いてあった自分の鞄をひったくるようにして、またドアを出ようとした。
「か、香織?」
 私の呼びかけに応えたのか、香織が足を止める。
 だけど、私の方を振り向くことはなくて……喋ってもくれない。
「ね、ねえ香織、一体どうしたの?」
「…………」
 振り返る香織。
 表情は、さっきのまま……怒ってるみたいで、私のほうを睨み付けてきた。
 けど、どうして……?
 私は怖くなって、思わず後ずさった。
「……結」
「な、なに?」
「……浅村くんと引き合わせてくれたことは感謝するわ。だけど……だけど、私が好きなのはあんな男じゃない」
「えっ……」
「なによあの男! 何言われても結がいるから、どう言っても結がいるから、結がいるからの一言で済ませて……結から離れようともしない!
 私が好きだったのは結のことを優しく見てあげてる浅村くんで、あなたがいないと生きていけない浅村くんなんかじゃない!
 あの優しさが好きだったのに……あんなの優しさじゃない、ただの押しつけよ!」
 ……そんな……
「……お兄ちゃんが、そう言ったの?」
「そうよ! ただ守りたい、離れても守りたいからって……あんなのただのシスコンよ!」
 香織の凄い剣幕に……私は何も言えなかった。
「あなたのことばっかり話して、他には何もできないからって……まるで結に縛り付けられてるみたいじゃない、お互い縛り付け合ってるみたいよ!」
「やめろ! 高瀬!」
 香織の言葉を遮るようにして、お兄ちゃんが教室に飛び込んできて叫んだ。
「お兄ちゃん……」
「なによこのシスコン! まわりのこと考えないで、たった二人だけ幸せならいいなんて……自分勝手よ! 結の気持ち、考えてあげたことあるの!?」
「高瀬、もうよせ!」
「結も結よ! どうして浅村くんのことを自立させようって思わなかったの? あなただってもう一人でも大丈夫でしょ!」
 やめて……
「浅村くんがこうなったのも、あなたのせいなのよ!? わかってるの!?」
 やめてよ……
「あなたのその体と、昔やったことのせいで……浅村くんは束縛されてるのよ!?
 あなたから独り立ちできない、妹しか見れない男になったのよ!?
 あなたのせいで……あなたのせいで、私は振られたのよ!」
 ……えっ?
「高瀬ぇ!」
 瞬間……乾いた音が教室に響いた。
 お兄ちゃんが……香織の頬を張った音。
 私は、それを見ていて。
 香織は、頬を押さえて。
 お兄ちゃんは、叩いた格好のままで。
 私も香織もお兄ちゃんも、動かなくて……
 ただ、風が窓を揺らす音しか……
「ひどいわよ……」
 香織が……声を震わせながら呟いた。
「二人とも、ひどいわよ……」
 悲しそうに、私たちのことを睨み付けて……
「これじゃ、私はただのピエロじゃない……」
 目から幾筋も涙を流して……
「もう……勝手にしてよぉ!」
 香織は、外に飛び出していった……

 駄目……だったの?
 せっかく二人を仲良くさせようと思ったのに……
「お兄ちゃん……」
 叩いた手を見つめたまま、固まってるお兄ちゃん。
「どういうことなの?」
「……なんでもないよ、結」
 気付いたみたいに、お兄ちゃんが私のほうを向いて笑顔になった。
 いつもの、優しい笑顔だけど……
「なんでもなくないよ。
 なんで香織が泣いてるの? なんで香織が怒ってたの?」
「ただ、お互い言ってることがすれちがっただけだ」
 そんな風に見えないよ……
 お兄ちゃんが一方的に香織を傷つけてたみたいで……
 だったら……
「じゃあ……お兄ちゃんのことを、私は縛り付けてるの?」
「それはあいつの単なる思い込みだ……気にしなくていいんだ」
 浮かべてる笑顔を見るのが辛くなって、私はお兄ちゃんから顔を背けた。
「それに……それに、なんなの?
 昔、私がやったことって」
 私がそう聞いた瞬間、お兄ちゃんの肩が震えるのが見えた。
「……いいんだ、お前は知らなくても」
 そう言って、お兄ちゃんは私の肩に手を置こうとした。
 けど……
「お兄ちゃん……」
 私はその手をとって、お兄ちゃんのことを見つめた。
「もしも、その事でお兄ちゃんが傷ついてるなら、教えて?」
「……いや、本当に何でもないから」
 もう片方の手で、お兄ちゃんが私の手をそっと下ろした。
「帰ろう、結」
 笑顔のまま、お兄ちゃんが自分の席に戻っていく。
 だけど、その笑顔は無理をしているみたいで……見ている私のほうが辛かった。
 何かを隠してるって、わかっちゃうくらい。
 だから、お兄ちゃん……話してよ。
 無理しないでいいんだよ。

 私は、何を言われても大丈夫だから……
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