ガラスのラビリンス
第3章
1
暗く、静寂。
とっくに日も暮れて、外から入ってくる光もない。
何時かはわからないけど、この時間には外はたいがい静かなはずだ。
ベッドに寝転びながら、俺はずっとそんな部屋を眺め続けていた。
……何かをするわけでもなく。
さっきの出来事を思い出す度に、何かをする気力を奪われて……俺はただ、寝転んでることしかできなかった。
はっきり言って、ショックだった。
あいつが桜庭の告白にOKしたこと。
あいつが俺のことを拒否したこと。
あいつが自分で俺から離れたこと。
結が絶対するはずがないと思っていた事なのに……
また、寝返りを打つ。
暗い壁が、ただ俺の前に広がる。
何でだよ。
何であいつになんかついていったんだよ。
結……
俺は毛布の端を握りしめながら、思わず舌打ちした。
……何でこんなにムシャクシャするんだよ。
桜庭の喜ぶ顔を思い出すたびに、俺の心が激しく苛立つ。
まるで俺のことを嘲笑うみたいに、見せつけるみたいに結の手を握って……
いや、それだけじゃない。
結のあの時の笑顔が、どうしても信じられなくて……まるで作った物みたいで、俺には本当の笑顔だとは思えなかった。
なぜなら、俺はその作った笑顔を幾度も見ていたから……
数年前。
俺がずっと思い出したくなかった、記憶の中の笑顔と一緒で……
……
いや、やめよう。
気のせいだと思おう。
結がもう、あんな笑顔をするはずがないんだから。
あの時から、俺に本当の笑顔を見せるようになったんだから。
だけど……
どうして桜庭となんか付き合うって言い出したんだよ。
今まで、何度もクラスの女を泣かせているっていうのに……
だから、絶対あいつをお前には近づけたくなかったんだ。
なのにどうして、お前は桜庭になんか付き合おうって言い出したんだよ……
「どうしてなんだよ……!」
呟きながら、俺は壁に拳を叩きつけた。
低く鈍い音が、部屋に響く。
……ダメだ、ストレスの発散にもなりゃしない。
俺は体を起こして、ため息をついた。
高瀬が言ったとおりなのか?
結は俺から離れたがってるって……
俺が結の邪魔になってるって……
……いや、気のせいだろう。
俺はただ、結のことを守ってやろうと思ってるだけなんだ。
それ以外の何物でもない。
俺はあいつのことが大事だから、守ってやりたいんだ。
それだけで、結が離れるなんて思いたくない。
だけど、どうしても理由が見つからない。
結が離れた理由。
そして、あの笑顔の理由。
昨日まで、俺のそばにずっといてくれたのに。
……なんでいきなり、こんなことになったんだよ。
それがわからなくて、またむかついてくる。
あー……ダメだ。
何考えてもマイナスになる。
軽く、壁に拳を当てる。
別に意味はないけど、こうでもしてないと何か落ち着かない。
今頃、結はなにをしているのか。
あいつに酷い目に遭ってるんじゃないのか。
想像したくはないけど、そんなことが頭をよぎる。
桜庭なら、そういうことをしかねないからな……
はっきり言って、最悪の日だ。
結と最後に一緒にいられる日が、こんなことになるなんて。
俺はこんなことは望んじゃいなかった。
ただ、結と一緒にいられればよかったのに、その結が離れていくなんて……
俺が何かしたのか?
結が怒るような何かをしたのか?
だけど、思い返してみてもそんなことをした覚えは全くない。
ずっと、結と一緒にいようとしただけだ。
それだけなのに……結果、今こうしてる。
たった一人の卒業式前夜、か。
……こんなに寂しいなんてな。
自分を嘲るように、笑う俺。
結とどう接すればいいのか……結とどう別れればいいのか……それがもう、全部まっ白になってる。
明日からどうしていいのかわからなくなって、ただ笑うことしかできない。
俺の責任なのか?
俺がやったことのどれかが、悪かったのか?
考える度に、俺の思考がループしていく。
……駄目だな、俺。
結が少しいなくなっただけで、こんなになるなんて思わなかった。
明日から、一体どうすればいいっていうんだよ。
「はぁ」
喉の乾きを感じた俺は、ベッドから降りて部屋のドアを開けた。
誰もいない気配。
寒いせいもあるんだろうけど、静かすぎる雰囲気が、一層寂しく感させじる。
階段を降りる音だけが、家の中に響く。
今まで味わったことのない空気に違和感を感じて、俺は足早に一階に下りていった。
リビングのドアを開けて、電気をつける。
「うっ……」
さっきまで真っ暗な中にいたせいか、目が一瞬くらむ。
目が慣れて、リビングが見えてくる。
誰かがいるわけでもなく、広々とした空間が、ただそこに広がっているだけだった。
冷蔵庫の扉を開けた俺は、さっき買ってきたオレンジジュースのペットボトルを取り出して、その栓をゆっくり開けた。
そして、それを一気に煽る。
喉に、冷たい感触が広がっていく。
飲み終わった俺は、空になったペットボトルをゴミ箱に投げ捨てた。
「さ、部屋に戻るか……ん?」
そう言って、リビングから出ようとした俺の目に、テーブルの上に置いてある一枚の紙が飛び込んできた。
「……ん?」
手にとって、それを読んでみる。
『今日・明日は仕事が遅くなります。多分帰ることができません。口座からお金を引き出して、ご飯を買って下さい。
母より』
昨日置いていった、母さんからの置き手紙か。
手紙の下には、いつも行ってる銀行のカードが置かれていた。
「……こんな日に限って、泊まりか」
苦笑して、紙を元の場所に戻す。
今の俺には食欲がなかったし、結だって帰ってきてない。
はっきり言って、このお金も今はただの紙切れにしかすぎない。
そして、もう一度部屋に戻ろうと歩き出した。
と、入口の脇にある電話が鳴る。
……結からか?
結からの電話であることを祈って、俺は受話器をゆっくりと取った。
「……もしもし?」
恐る恐る、話しかけてみる。
だけど、相手の声は今の俺の神経を逆なでするには十分だった。
『あ、俺。桜庭だけど』
桜庭だ。
俺から結をさらっていった奴。
「……なんだよ」
気分が悪くなった俺は、思わず声のトーンを低くして言った。
『…………』
けど、桜庭は返事をしない。
「おい、どうしたんだよ」
『あの、さ……』
歯切れ悪い桜庭の言葉に、俺の中で嫌な予感が生まれる。
「……何があったんだよ」
『…………』
「はっきり言えよ」
『…………』
「結がどうかしたのか?」
『…………』
俺が冷たく言ってるせいなのか、桜庭は返事を返そうとしない。
「何があったんだ?」
『…………』
「おい、桜……」
『学校前にいるから』
俺が問いかける前に、桜庭は俺にそう告げて電話を切った。
……なんだよ。
……何があったっていうんだよ。
受話器を持ったまま、俺はただ呆然と突っ立っていた。
桜庭の最後の言葉だけが、ただ頭の中で繰り返される。
弱々しくて、怯えてるみたいに。
学校に来い、って……
「……結に何かあったのかよ……」
嫌な予感に、俺はリビングから急いで飛び出した。
そして、玄関に出て、靴を履くのももどかしく外に飛び出した。
「あっ……」
雪。
暗い空から、静かに降ってくる雪。
寒々しい空気に、俺はブレザーだけ着ているのに気付いた。
だけど、そんなことに構っていられない。
今はただ、結の所へ行くことが先決だ。
桜庭の言っていた言葉をかみしめながら、俺は学校へと駆けだした。
2
いつの間にか、降ってくる雪は強く、大きくなっていた。
走っているうちに顔に雪が貼り付いて、鋭い痛みが走る。
粉雪から牡丹雪に変わったせいで、なおさらだ。
それでも俺は、ただ桜庭たちが待っているはずの学校に向かって走り続けた。
地面にできたみぞれに脚を取られたりしたけど、今はただ、学校に行ければそれでよかった。
結に、何もないことを願いながら……
ぬかるんだ河川敷を駆け上がる。
泥が制服にかかっているけど、仕方がない。
ここを上がれば、もうすぐ学校なんだから。
「うわっ!」
脚が滑って、俺の体が地べたに倒れ込んだ。
「痛っ!」
その時、俺の手に鋭い痛みが走った。
見てみると、手のひらから血が出でいる。
多分、鋭い石かなにかで切ったんだろう。
けど……
「……行くぞ」
俺はまた立ち上がって、河川敷を駆け上がり出していた。
駆け上がったすぐそこに、いつも通っている高校が見える。
いつも通っている道じゃないせいか、一瞬違う気もしたけど、じっくり見てみると確かにいつもの学校だ。
それを確認した俺は、また学校のほうに駆けだした。
走っているうちに、見慣れた校門が見えてくる。
その前に、一人の人影があるのが見える。
……桜庭だ。
だけど、結の姿は……ない。
「桜庭ぁ!」
俺がそう叫ぶと、桜庭はまるて怯えたようにして、俺に背を向けて走り出した。
「待てよ、こらっ!」
俺の叫びには反応しないで、走り続ける桜庭だけど、元陸上部部長の俺にとって、追いつくのは簡単だった。
そのまま、桜庭の襟を掴んで引き倒す。
「わっ!」
桜庭が、背中から泥まみれのみぞれに倒れ込んだ。
見下すようにしている俺と、目が合う。
「……どうして逃げるんだよ」
俺が睨み付けて叫ぶと、桜庭は弱々しく目を背けた。
「結をどこへやったって言うんだよ!」
首を掴んで引き起こすようにしながら、怒鳴りつけてやる。
「……結ちゃんなら、逃げたよ」
「……あ?」
「俺が誘おうとしたら……」
「どこへ誘おうとしたんだよ」
「…………」
俺の問いかけに答えず、桜庭はまた目を背ける。
「桜庭、結をどこへ誘おうとしたんだ」
「…………」
「言えよ……」
掴んでいた襟首を、さらに締め上げる。
「ぐっ……!」
「言ってみろよ、どこへ誘おうとしてたのか」
「ほ、ホテルだよ……」
「!」
その言葉を聞いた瞬間……俺の拳が、桜庭の頬を激しく叩きつけていた。
「ぐぁっ!」
「貴様、結を誘おうとしたのか!?」
「た、ただ冗談で言ってみただけで……」
「本当かよ」
「…………」
鋭く睨み付けると、桜庭はまた黙り込んだ。
「お前のことだから……本当に連れ込もうとしたろ」
その言葉に、小さく頷く桜庭。
俺はまた、拳を同じ頬に打ち付けた。
「ぐ……!」
「よくも手を出そうとしてくれたな……それで、結が逃げたってわけか……」
「あ、ああ、そうだ……」
「…………」
もう一度、右腕を振り下ろす。
口の中が切れたのか、桜庭の口の中から血が一筋流れ出す。
桜庭の目も、完全に怯えていた。
「……結が走ったりしたら、どうなってるかわかってるだろ」
「あ、ああ」
「どうして止めなかった……」
襟首を絞める力を強くして、また睨み付ける。
「だって、俺が止める間もなくて……」
「……それで俺に電話したってわけか……」
俺がまた拳を振り上げると、桜庭は目を強く閉じて、体を強張らせた。
「ちっ……」
それを見た俺は、手の力を緩めて桜庭のことを突き放した。
そして、桜庭は尻餅をつくようにして倒れ込んだ。
結との最後の一日を奪って、結のことを傷つけようとしたこいつのことは許せないけど……これ以上、こいつを殴ったって意味がない。
「結はどっちへ行った」
「……あ、あっちだ」
桜庭が、弱々しく右のほうを指さす。
……あっちは公園とかあるほうだな。
「これ以上……これ以上、俺の結に手を出すなよ!」
怒鳴りつけて、俺は桜庭の指さしたほうに走り出した。
雪はだんだん強くなってきて、風も強くなってきた。
……俺は別にどうなったって構わない。。
だけど、結のことが、今はただ心配だった。
この天気の中で、結が無事にいられることを願うしかなかった。
3
「くそっ……」
ここでもないか……
ベンチにもいないし、池のほとりとかにもいない。
広い公園の中を探してみたけど、そこに結の姿はなかった。
今まで心当たりのある公園とかを探してみたけれど、どこにも結の姿はない。
「どこにいるんだよ……」
そこら中を走り回ったせいか、額には汗が溜まっていた。
それが、雪と風のせいかすぐに冷たくなっていく。
袖で拭おうとしても、水を吸っているせいでムダだし、手のひらで拭こうとしてもさっき転んで切ったせいで、ただしみるだけで駄目だった。
……明日は風邪ひき決定だな。
そんなことを考えながら、俺はまた心当たりがありそうな所へと走り出した。
あいつの体調が悪くならないうちに、探し出さないと……
結の体の弱さは、生まれつきのものだ。
体温調節が自分でできない上に、一度熱が出るとなかなか下がらない。
冷やせばなんとかなるけど、冷やしすぎっていうのも問題だ。
それに、走ったりなんかしたら呼吸が追いつかなくて倒れちまう。
だから、長い時間の運動は禁じられていて、体育の授業の時は、一人図書室で勉強したりしていた。
……この雪の中で走るなんて、無謀なんだ。
急がないと、下手したら命に関わることになる。
早く処置すれば、どうにかなることはなるんだけどな……
『はい、浅村です。ただいま留守に……』
「くそっ!」
受話器を叩きつけて、舌打ちする俺。
もしかして帰ってるかと思ったんだけど、駄目か……
電話ボックスのガラスに寄りかかりながら、大きくため息を吐いた。
雪が貼り付いて冷たいんだろうけど、もう既にそんな感覚がない。
手は痺れてるし、頬も痺れてる。
外の雪は、さっきよりは弱くなってるけど、まだ風が強い。
……急がないといけないな。
このままだと、俺も結も参って倒れることになる。
明日は卒業式だし、それだけは避けたい。
だけど、これまで捜したところ以外に心当たりはない。
はっきり言って、八方塞がりって感じだな……
ここ以外には……
……待てよ?
ここら辺で、よくあいつと歩いていたところとかがあるはずだ。
俺はボーッとした頭で、そのことを思い出そうとした。
俺と結が、二人してよく行っていた場所を。
「……よしっ」
呟いて、電話ボックスの扉を開ける。
冷たい風が吹き込んでくるけど、それに構っている時間なんて無い。
俺は両方の頬を叩いて気合いを入れると、外へとダッシュした。
目指すはまず、あの場所……
街灯もほとんどない、並木道。
春になれば桜も咲いて、綺麗な道になるんだけど……今はただ木が並んで、雪が積もっている道に過ぎない。
ここは、俺達が小学生のときの通学路だった。
今はその学校も統合されて無くなったけど、俺達が通っている時には子供達もよくここを通ってた。
学校が無くなってからは、ただの人通りのない道になっちまったんだけどな。
その入口に立って、俺は息を整えた。
他にもいくらか場所はあるけど、ここが一番確信が持てる。高校からも近いし、六年も通っていたんだから。
ここじゃなかったら、また他を探すしかないな。
「さあ……行くか」
長い並木道に向けて、俺は再び駆け出す。
まわりは林になっていて、灯りも入ってこない。
本当に結を見つけられるのか……それが心配になる。
木の陰にいたりしたら、見つけにくいしな。
……ん?
地面を見てみると、雪がへこんでいたりする場所があった。
足跡……だろうな、これは。
まだ先に続いていることを確認して、俺はそれをたどるように、慎重に歩き始めた。
木陰とかも、慎重に覗いていく。
だけど、まだ足跡は延々と続いていて、この辺にいそうな気配はない。
灯りがないせいて、見づらいな……
最近手入れがされてないせいか、切れてる電灯も多いし。
こんな中で探すのは、はっきり言って難しい。
どのくらい行ったんだろう。
足跡がだんだん深くなっていくのが、うっすらと見えてきた。
ここをずっとたどっていけば……
「結っ!」
この近くに、結がいるはずだ。
そして……
「あっ……」
結が、いた。
段差に寄りかかるようにして……結の短い髪や、制服に雪が積もるようにして倒れかかっていた。
「ゆ、結!」
俺は結の肩を揺すって、結の意識があるかどうかを確認した。
「…………」
「……嘘だろ?」
結の首は力無く垂れて、意識があるとは思えなかった。
額に手を当ててみると、なんだか熱いような気がする。
だけど、口に耳をあててみると、荒いけれどもしっかり呼吸していた。
一安心だけど……このままじゃ、結の体調は悪化するだけだ。
「結、結!」
頬を軽く張ってみても、結の反応はない。
「しょうがないな……」
俺は結を段差に座らせて、そのまま俺に背中に体重をかけさせる。
「よいしょっと」
そして、俺は結の腿を持ち上げるようにして、そのまま背負った。
……やっぱり、軽いな。
高校になって……結の調子が悪くなったときに、俺はこうやって結のことを背負って帰ったりしていたから、ちょっとは慣れていた。
だけど、今日は違う。
さっきまでずっと走っていたせいか、体力がそんなに無くなっていて、疲れもどっと溜まっている。
……何とか耐えられればいいんだけどな。
俺は、雪に埋もれかけていた結のかばんを左手に持ちながら、そう思った。
「さあ……行くぞ」
結の体からのわずかな温もりを背中に感じながら、俺はゆっくりと家に向かって歩き出した。
4
ガチャッ
リビングのドアを開けた俺は、結のことを背負いながら中に入った。
電気が付けっぱなしだったけど、リビングの中は寒いままだった。
すぐに、結を暖めてやらないとな……
結はまだ苦しいらしくて、さっきから呼吸は乱れっぱなしだった。
ソファーに結のことを寝かせて、俺はすぐにストーブのスイッチをオンにした。
しばらくして、暖かい風がヒーターから流れてくる。
だけど、まだ駄目だ。
俺の服もそうだけど、結の制服も雪で水気を吸って、すっかり冷たくなっている。
まず、これを脱がさないと……
「けどなぁ……」
はっきり言って、恥ずかしい。
いくら俺の妹だからって、服を脱がすなんてな……
でも、結の制服を脱がさないことには、体調も酷くなるだけだ。
「……やるしか、ないよな」
選択肢は最初から一つしかないっていうことだ。
もちろん……結の暖をとること。
俺は、自分の部屋と結の部屋から毛布を持ってきてから、ストーブを結の目の前に置いた。
結の肌に俺の制服の水分が付かないように、まず俺がブレザーの制服を脱いで、ワイシャツを腕まくりする。
そして、俺はソファー越しに、結の後ろに立った。
……前からじゃ、まともに見れないもんな。
別にやましいことをするわけじゃないけど、恥ずかしいことには変わりない。
まず、手始めに結がつけている白いリストバンドに手をかけた。
……あまりいい思い出はないんだよな。
たっぷりと水を吸ったリストバンドを取りながら、俺はそう思った。
俺は深呼吸をしっかりしてから、結のブレザーに手をかけた。
ボタンを一つ一つ外して、結の腕をとりながら、ブレザーを脱がしていく。
やっぱり水分を十分に吸っていて、ブレザーはすっかり重くなっていた。
それを脇に置いて、ブラウスに付けているリボンもするっと抜き取る。
……問題は、ここからだ。
鼓動が早まるのが、自分でもわかる。
まずは、ブラウス……だな。
俺は見えないように、ソファーの背もたれのところに顔を押しつけるようにした。
手探りでやるしかないよな……
ちょっと苦しいけど、ブラウスのボタンを手探りで一つ一つ外していく。
そして、ブレザーと同じようにしてブラウスをそっと脱がす。
だけど、さっきと違って結の腕がさらけ出しているせいもあってか、胸の鼓動がまた早くなっていた。
――静まれ、結は俺の妹なんだから。
自分の心の中でそう呟きながら、俺は結の裸を見ないようにした。
今度は結の体を前に少し倒して、再び布地を手で探り始める。
と、指先が金具……ホックに当たるのがわかった。
それを手早く外して、結の両腕からブラジャーを引き抜き、脇の服がある所に置いた。
そして、後ろから結をくるむようにして毛布をかける。
これで暖はとれるかもしれないけど……まだスカートも残っている。
あとは毛布で隠すようにすれば、大丈夫……だと思いたい。
今度は前にまわって、毛布の間に右手を差し入れる。
「うっ……」
結の肌に触った俺は、思わず混乱して小さな声を上げた。
……静まれ、静まれ、静まれ。
何度も呟いて、心を静めさせる。
手探りでスカートのホックを外して、ジッパーを下げた俺は、下のほうからそのままスカートを引き抜いた。
「ふうっ……」
これで、多分大丈夫だろう。
あと残っているのは……正直、勘弁してほしい。
俺はもう一枚結に毛布をかけて、顔と髪の水気を拭いてやった。
だんだん部屋も暖かくなってきて、俺の興奮も、少しずつ静まっていった。
……何、興奮してんだろ。俺。
そして、俺も自分の部屋で服を着替えて、またリビングに戻ってきた。
結の顔に赤みがさしてきたのを見て、俺もちょっと安心した。
「ふぅ……」
ため息をつきながら、結の向かいに座る。
さっきまで荒かった息も、少しずつおだやかなものになっていた。
このまま、悪化しなければいいんだけどな。
そう言ってる俺も、結の看病のことで気付かなかったけど、頭が痛くて、熱があるみたいにぼーっとしている。
「やばいな……明日は」
卒業式だっていうのに、このままじゃ二人して欠席だろう。
……洒落にならないけど、いいか。
明日も二人で、一緒にいられるんだから。
そんなことを考えながら、俺は結の顔をずっと見つめていた。
小さいときから、俺はよく結の看病をしていた。
親父がいなくて母さんが忙しく働いてたから、それはある意味しょうがないと、俺の中でも納得していた。
結が熱で休んでいたら、俺も一緒になって結の横にいた。そして、家の中で出来ることは、全部俺がやってやった。
俺が結のことを看てやらないといけない。体が悪かったら、そばにいてやらないといけない。子供心に、自分でそう思っていた。
なぜなら、結を看られるのは俺だけだったから。
俺以外に、誰も結を看られなかったから。
だけど……それも、小学生までだった。
中学生になってからは、俺は自然に結とは距離をとるようになった。
思春期のせいと言ったら、そうかもしれない。
だけど、結にとってのその俺の行動は、最悪の結果をもたらしただけだった。
……思い出したくない、闇に葬りたい結果。
たった一つの過ちが、結のことを……
それから、俺は結を守ることを誓った。
絶対、結を守るんだって。
結がどんなことに遭っても、俺がそれを受け止めてやるんだって。
だからこそ、今日の結の行動はショックだったんだ。
まるで俺を避けるようにして、危険人物の桜庭と一緒に出かけていったんだから。
お前のことを守ろうと思っても、出来ないところへ行ったんだから……
「お兄……ちゃん……」
「ん?」
かすれた声に気付いて、俺は結のほうへ歩み寄った。
そして、さっきよりずっと穏やかになった寝顔を見て、俺はほっとした。
子供の時みたいに、結の髪をそっと撫でてやる。
「お兄ちゃん……」
かすかな声だったけど、はっきりと聞こえた結の声。
「……俺は、ここにいるよ」
耳元でそうささやいてやる。
これも、子供の時のように。優しく……
その瞬間、結の寝顔がにこやかな笑顔になったように見えた。
「まったく……子供の時と変わらないな」
そう思いながら、俺は結のそばから離れた。
時計を見てみると、もう午前零時を指していた。
ずっと気付いていなかったけど、もう日付が変わっていたんだな。
だけど、このまま結のそばにいてやろう。
目が覚めて、一人だったら不安なだけだろうしな……
結の看病に専念するために、俺は隣に座ってこいつの顔を覗き込んだ。
寒気での震えもまったく無くなったから……安心っていったところかな。
額に手をやってみても、さっきみたいな妙な熱さはない。
あとは、結の目が覚めれば大丈夫だな……
俺は結の額をタオルで拭きながら、そんなことを思っていた。
「んっ……」
結が目を強くつむりながら、かすかに声を出した。
「あ、結……」
俺が呼びかけると、結はうっすらと目を開けた。
だけど、まだ弱々しくて、すがるような瞳。
そして、俺のことを見つめて口を開いた。
「……お兄ちゃん……」
「大丈夫か? 結」
俺のその問いに、ゆっくり頷く結。
「大丈夫だよ……走りすぎて、呼吸が苦しくて倒れただけだから」
「そうか……あまり無理するんじゃないぞ」
「うん」
結が不安にならないように、俺は笑いかけてやった。
「ごめんね……お兄ちゃん」
「ん?」
「お兄ちゃんに心配かけたりして……」
そう言って、結が俺から目をそらす。
まったく……
「大丈夫だよ。結が無事だったら……それでいいんだ」
「私ね、桜庭くんから逃げちゃったんだ……桜庭くん、強引に私のことを誘おうとするし……」
「あいつのことは、もういいんだ。話さなくていいから」
この話題はもういい。
あいつの事は、もう言葉にも出したくない。
「うん……わかった」
結が頷いたのを見て、俺も頷き返す。
「あの、お兄ちゃん」
「どうした?」
「なんか、私、何も着てないみたいだけど……」
「あっ」
……参ったな。
けど、やましいことなんてしてないわけだし……正直に言うか。
「ごめん、結。なんか、あのままだと制服も水を吸ってて、風邪引きそうだったからさ」
「えっ……そうだったの?」
「並木道で倒れて、雪をかぶってたからな。だから……け、けど、裸は見てないぞ!」
思わずしどろもどろになったけど……これでいいよな。
「本当?」
「ああ、本当だって」
首を傾げているように見ていた結だったけど、俺の返事を聞いて、にこっと笑った。
「冗談だよ。お兄ちゃんのこと、私信じてるもん」
「まったく、あまりからかうんじゃないぞ……」
「うん、わかった」
その言葉に、俺はなぜか安心した。
……疑ってたわけじゃないんだな。
「じゃあ……何か温かい物でもいれてやるよ。これ以上風邪を引いたりしたら、やばいしな」
そう言って、俺はソファから立った。
「ありがと……お兄ちゃん」
「いいんだよ」
ソファに申し訳なさそうに腰掛けてる結に、俺はまた笑いかけてやる。
安心させてやらないと……な。
俺はキッチンに立って、ティーカップを棚から取り出した。
そして、電気ポットからお湯を注いで、カップにハーブティーのティーパックを入れた。
それを二つ、リビングに持っていく。
結は俺のことを見ながら、毛布にくるまったままだった。
「結、明日……卒業式、どうするんだ?」
「えっ?」
俺の問いに、結がびっくりしたみたいに聞き返してきた。
「明日だよ。制服もびしょ濡れだし、お前も体調悪くしたらいけないし……
どうする? 卒業式、出るのか? 出ないのか?」
「…………」
だけど、俺の問いに、結はまるで考え込むようにして顔を伏せてしまった。
「結……?」
「お兄ちゃん」
「うん?」
「お願いがあるんだけど……いいかな?」
何だか申し訳なさそうな顔をして、結が言ってくる。
「ああ、俺に出来ることだったらいいけど……?」
「だったら、ちょっとラジオつけてくれないかな」
「ラジオ? ああ、それくらいだったら別にいいけど……」
俺はそう言って、ローボードにあるオーディオのスイッチを入れた。
FM局なせいか、この時間になっても騒がしいロックがガンガンかかっている。
「これが聞きたかったのか?」
「……ううん」
「だったら、局変えるか」
「あ、待って」
結はそう言って、俺がチューニングボタンを押そうとするのを止めた。
「このままでいいから……」
「あ、ああ」
俺はソファーにまた座って、結の顔を見た。
なんだか、思い詰めてるみたいな……浮かない顔をしている。
「なあ、結……」
「何?」
「俺に何か言えないことでもあるのか?」
俺の問いかけに、結は首を横に振った。
「だったら、何か――」
「お兄ちゃん、このままラジオ聞いてて」
「あ、ああ」
俺のことを遮るような結の言葉に、俺は従うことにした。
曲が終わって、DJのトークが始まった。
『二月最後の日のリクエスト、まず一曲目は……』
「えっ……」
今……何て言ったんだ?
二月最後って……
俺は混乱して、思わず時計に目をやった。
三時半……
もう、卒業式当日、三月一日のはずだろ?
「お兄ちゃん」
結の言葉に振り向く俺。
だけど、結は何も動じてないみたいに表情を変えていなかった。
「他の局も聴いてみて」
「あ、ああ」
俺は結の言うとおり、他の局にチューニングを合わせてみた。
だけど……
『今日は二月二十八日』
『二月二十八日の天気』
『二月最後のリクエストは……』
どうしてだよ……
どうして、みんな二月最後とか言ってるんだよ……
「あ、あはは……風邪でボーッとしてるだけだよな……」
「お兄ちゃん……」
「冷たい風にでも当たれば、目が覚めるだろ」
俺はそう言って、帰ってきたときに雪が降り積もっていた庭への窓をそっと開けた。
「……え?」
だけど、そこには……
「う、嘘……だろ?」
雪なんて、ほとんど残っていなかった。
いや。
まるで、最初からなかったみたいに……
そう。
昨日の朝みたいに……
「お兄ちゃん」
結の言葉に、俺は振り向いた。
……悲しい表情。
「私たちね」
やめてくれ、そんな表情するのは……
「ずっと、ずっと」
夢なんだ、これは。
だけど、結はそんな俺を突き放すみたいに、
「同じ時間を、ぐるぐる回ってるんだよ」
信じられない言葉を言った……