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ガラスのラビリンス

第2章

 1

 雪が、静かに舞っていた。
 真っ白な空から、ゆっくりと。
 街中が真っ白に染まって、雪が積もっている。
『ふぅ……』
 吐く息も、真っ白。
 冬になると、毎日繰り返される風景。
 私はもう、十数年間この風景を見続けてきた。
 それでも、退屈することはなかった。
 こうやって降ってくる雪……それに、積もってる雪が大好きだから。
 それに、そばで一緒に歩いてくれる人がいるから。
 私が一番大好きな人。
 ちょっと遅れて歩いてるその人の方に、私は笑顔で振り返った。
『お兄ちゃんっ』
 私に気付いたように、お兄ちゃんが顔を上げる。
 だけど、いつものような笑顔の横に……まるで雪みたいに冷たい表情の顔が、重なって見えた。
『何だ?』
 笑顔で言ってくれるお兄ちゃんと……無表情で言うお兄ちゃん。
『え、あの……』
『どうした?』
 二つのお兄ちゃんの表情に、私は何も言えなかった。
 冷たい表情のお兄ちゃんが、どことなく怖くなって……
『何か、あったのか?』
 その横のお兄ちゃんの笑顔が、作り物みたいな気がして……
『う、ううん……なんでもない……』
 私はただ、お兄ちゃんの顔を見てることしかできなかった。
『そうか』
 苦笑するお兄ちゃん。
 吐き捨てるお兄ちゃん。
 まるで、対照的な二つの顔。
 私にはそれが信じられなくて……
 ただ、ここでお兄ちゃんのことを見てることしか……
『なあ、結』
 お兄ちゃんが、私の顔を覗き込んでくる。
 いつもの優しい笑顔と、
 正反対な、冷たい無表情な顔。
『……嫌っ』
 私はそう言って……お兄ちゃんの顔から、目を背けた。
『お願いだから、そんな表情しないで……
 そんな顔するお兄ちゃん、嫌だよ……』


「んっ……」
 冷たい空気が、私の頬に痛く感じる。
 ぼやけた意識が、その空気のおかげでだんだん覚めていく。
 頭を軽く振って、眠気を一気に飛ばす。
 また……この夢かぁ。
 私はため息をつきながら、ベッドから軽く体を起こした。
 何度も見てるけど、この夢は慣れない。
 お兄ちゃんがあんな表情をするはずないし、いつもの笑顔も、なんか別物に見えちゃったし……
 見ていて、本当に嫌になる夢。
 ……忘れたいけど、何度も見てると頭の中に焼き付いちゃって忘れられない。
「……起きよう」
 私はベッドから下りて、部屋の電気をつけた。
 まだ暗かった部屋が、蛍光灯でぱっと明るくなる。
 時計は、朝の四時を差していた。
 昨日も、一昨日も、その前も、まったく同じ。
 見た夢も、起きる時間も、そして……私の行動も。
 なんだか……嫌だな。
 同じ事を何度も繰り返して、同じ毎日を過ごしてるなんて。
 私はカーテンを開けて、外を眺めてみた。
 昨日の夜、降り積もっていたはずの雪はどこにもなくて、道の両端にかき分けられた雪だけがそこにはあった。
 また……卒業式、迎えられなかったんだ。
 さっきの夢を見たときから予感はしてたけど……なんか、がっかりするなぁ。
 カーテンを閉めて、椅子の背もたれにかけておいたブレザーを軽く羽織る。
 寒いのは相変わらずだけど、これがあるだけでもちょっと違う。
 ふと、枕元に置いてあったポケットラジオに、私は手を伸ばした。
 ボリュームを上げて、スイッチを入れる。
『おはようございます。今日は二月二十八日……』
 これも、昨日までとずっと同じ……
 スリッパを履いた私は、ドアを開けて外に出た。
 暗くて冷たい空気が、廊下に広がってる。
 寒さのせいで、肩がガタガタ震えるけど……私は自分の肩を抱きかかえるみたいにして、なんとか暖かくしようと思った。
 これも、昨日と同じ。
 だけど……今日、これからは……
 昨日までの日常を抜け出せるように……
 私が、どうにか変えなきゃ……

 2

 いつもの道。
 空が高く、青くて、冷たい風が時々私の頬をさす。
 道の両端の雪が、太陽の光にきらきら反射して光を作ってる。
 昨日……幾度も過ごした「今日」までと、同じ風景。
 ただ、違うのは……
 後ろを振り向いても、横を向いても、誰もいないこと。
 登校してるのは、私一人だけ。
 昨日まで一緒に登校していたお兄ちゃんとは、今日は登校するのを避けた。
 いつもの日常を、崩すために……
 だから、私だけで登校することにした。
 けど、しょうがないもの。
 早く、この時間の輪から抜け出さなきゃいけないんだから。
 だけど、いつもお喋りしているお兄ちゃんがいないと……どこか寂しい気がする。
「あ……」
 突然、意識が真っ白になって、私の脚がふらついた。
 早く起きて、早く出てきたせいかな……
 塀に手をついて、そのまま寄りかかる。
 やっぱり、無理はできないなぁ……
 私は苦笑しながら、少しだけ身体を休ませることにした。

 どうしてなんだろう。
 お兄ちゃんはいつも私に優しくしてくれる。
 大事に、傷つけないようにするみたいに、私にいつも接してくれる。
 だけど、私にはその理由がわからなかった。
 いつから、お兄ちゃんがこういう態度を取るのか。
 私が、いつからこうやってお兄ちゃんの優しさを受けているのか。
 お兄ちゃんが、どうして私にいつもついていてくれるのか……
 気付いたら、いつも私のそばにお兄ちゃんがいた。
 事有るごとに、私に話しかけてくれたり、手伝いをしてくれたり、様子を聞いてきてくれたりして……
 気付くと、いつもお兄ちゃんが私のことを守ってくれていた。
 だけど、お兄ちゃんは自分のことを犠牲にしてまで私に接してる。
 お兄ちゃんのことを想っている人もいて、お兄ちゃんがしたいこともあるはずなのに……それを、捨ててまで。
 それが、私にはどこか嫌だった。
 私のために自分のことを犠牲にするなんて、考えたくなかった。
 だって、私のためにお兄ちゃんが犠牲になることなんてないもの。
 お兄ちゃんにはお兄ちゃんの将来があるはずなのに、それを犠牲にするなんて、見ている私の方が辛かった。
 私だって、お兄ちゃんとずっと一緒にいたい。
 だけど……お兄ちゃんが自分のことを殺してまで、一緒になってほしくはない。
 できれば、私だってお兄ちゃんに何かしてあげたいのに。
 私にだって、お兄ちゃんにできることがあるはずなんだから。

「おはよっ」
 立ちくらみが治まってから数分後。
 私はどうにか学校に着いて、自分の教室へと行くことができた。
 ちょっと、階段がきつかったけどね。
「あ、おはようっ」
 教室に入ってすぐ、香織が私のことを笑顔で迎えてくれた。
 香織はいつも教室に一番で来るから、私とは毎朝顔を合わせてる。
「珍しいじゃないの、結が一人きりなんて」
「うん。ちょっと、たまにはね」
 私はそう言って、自分の席に座った。
 もちろん、香織はいつも私がお兄ちゃんと一緒に登校してくるっていうことを知っている。
「どうしたの? ……喧嘩でもしたの?」
 表情を曇らせて、香織が私の顔を覗き込んでくる。
「ううん、ちょっと早く起きすぎちゃって」
「なあんだ。結らしいわね、そういうところ」
「そう?」
「うん。浅村くんとは違って、しっかりしてるもの」
「お兄ちゃんだって、しっかりしてるよ〜」
「まあ、結と浅村くんは二人で一人って感じだからね」
 そう言いながら、香織が大きなポニーテールを揺らしながら、私の隣の席に座った。
「うん」
「だけど……それも明日まで、ね」
「……うん」
「明後日からは、結も浅村くんもバラバラになっちゃうんだから……しっかりしないと」
「わかってるわよ。私だって、一人でなんとかできるもん」
「そうよね。だからこそ、結は東京の専門学校選んだんだもんね」
 香織が言ったとおり、私は一人でもなんとかできるようにと思って、わざわざ東京の学校を選んだ。
 お兄ちゃんに頼り切りの自分が嫌だったから。
 それに、お兄ちゃんがくれた夢を、どうしても自分で叶えたかったから……
 だから、私はお兄ちゃんから離れて、自分自身の力だけでやっていきたかった。
 香織にはこのことをよく相談してたから、私が思ってることは良く知ってる。
「東京に行ったら、あまり会えなくなるわね」
「大丈夫だよ。夏休みとか冬休みには、時たまこっちに帰ってくるつもりだし」
 昨日まではなかった会話。
 昨日とは違うっていうことがまず嬉しかったけど、それ以上に、こうやって香織と話せるのが嬉しかった。
「それまでに、浅村くんが一人でいるのに慣れてくれればいいんだけど」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんだって慣れてくれるって」
「そうあることを望みたいわ」
 香織は苦笑してから、教室中を見渡した。
「まだ、来そうもないわね」
「ちょっと早く来すぎたかなぁ」
「そんなことないと思うわよ。他のみんなはほとんど来てるんだもの」
 確かに、もう教室中の席はほとんど埋まっていた。
「浅村くんが遅いだけよ」
「そうかもね」
 私も、思わず苦笑しちゃう。
 お互い、お兄ちゃんが好きだからこういうことが言える。
 繰り返されてきた昨日までの記憶の中で、香織の泣き顔が思い浮かんできた。
 悔しそうな香織の泣き顔。
 そして、今こうやってお兄ちゃんのことを二人で話してる時の笑顔。
 香織が、本当にお兄ちゃんのことを好きなんだなぁって、なんとなくわかる。
 私も……お兄ちゃんのことが好きだから。
 お兄ちゃんのことが、どんな人よりも大好き。
 だけど……私とお兄ちゃんは兄妹だから。
 それ以上の感情は持っちゃいけないって、わかってるから……
 だから、今は香織のことを応援してあげたい。
 私の親友だし、お兄ちゃんにもお似合いだと思うし。
「あ、来た」
「え?」
 私がドアの方を振り向くと……
「あっ……」
 お兄ちゃんが、息を切らして教室の中に入ってきた。
「おはよう、浅村くん」
 苦笑しながら言う香織だったけど、お兄ちゃんはそんな香織を無視して、私の前へやってきた。
「えっ……」
「結、どうして黙って行った?」
 私の顔を覗き込んで、お兄ちゃんがきつい口調で言ってくる。
「だ、黙ってなんかじゃないよ……
 お兄ちゃんのこと起こしてから、ちゃんと行ったもん」
「本当か?」
「うん……」
 ごめん、お兄ちゃん。
 本当は、声もかけないで来ちゃったんだ……
 だけど、お兄ちゃんは苦笑いを浮かべてから、私と少し距離をとった。
「そっか……なら、しょうがないか。
 けど、俺のこと置いていくなよ。俺だって最後に、結と一緒に登校したかったんだからさ」
「うん……」
「ま、別にいいんだけど」
 お兄ちゃんはそう言って、窓際の自分の席の方に歩いていった。
 そんなお兄ちゃんを見ていて、私の心が少し痛んだ。
「まったく……相変わらずなんだから」
 そう言いながら、香織がため息をついた。
「しょうがないよ。いつもああいう感じだもん」
「けど……今日までなのよ、あなたたちが一緒にいられるのは。
 浅村くんにも、もっとしっかりしてくれないと……」
「うん……」
 私も呟きながら、お兄ちゃんの後ろ姿を見ていた。
 もし、この時間の輪から抜け出したら……お兄ちゃん、本当にやっていけるのかなぁ。
 心配になって、私は香織といっしょにため息をついた。

 3

 それから私は、積極的にお兄ちゃんとは別行動をとることにした。
 お兄ちゃんは私についてこようとするけど……これも、この時間の輪から抜け出すためだもの。
 けど、もしこの日の状況で抜け出したとしたら……ちょっと嫌かもしれない。
 だけど、このままじゃ……

「ふぅ……」
 卒業式の予行練習が終わって、体育館中がざわめいていた。
 これから退場して、自分のクラスに戻るっていう順番になっている。
 それで、この後ホームルームで……最後の大掃除ね。
 もう何回もやっているせいか、私の頭の中にはそれが刻み込まれていた。
 ただ、これもどうにかして変えたりしないと……
「結ちゃんっ」
「うわっ!」
 突然肩に手が置かれて、私は思わず声を上げちゃった。
 って、もしかして……
 私はある確信を持ちながら、そっと後ろを振り向いた。
「……さ、桜庭くん」
 予想通り、私の後ろにはいたずらっぽい笑顔を浮かべて立っていた。
「お疲れさま、身体は大丈夫?」
「う、うん。別に異常はないけど……」
 私はそう言いながら、桜庭くんの方に向き直った。
 なんか、桜庭くんは妙に嬉しそうに笑ってる。
「そっか、なら良かった」
「で……何か用なの?」
 返事はわかっていたけど、私は念のために聞いてみることにした。
「あのさぁ……今日、最後のホームルームが終わったら、ちょっと一緒に来てくれないかな?」
 やっぱり……
「えっと……どうして?」
「ちょっと話したいことがあるからさ」
「う、うん……わかった」
「ラッキー! んじゃ、後で呼びに行くから」
 そう言って、桜庭くんは自分の席の方に戻っていった。
 ……やっぱり、何度同じ事を言われても慣れないなぁ。
「どうしたの? 桜庭となんか話してて」
 私がため息をついてると、香織が私の隣にやってきた。
「あ、香織」
「もうそろそろ撤収の時間だし、行きましょ」
「うん」
 私は立ち上がって、香織と一緒に教室に戻ることにした。
「で、何があったの?」
 心配そうな顔で、香織が聞いてくる。
「んーと……後で来てくれって言われたんだけど……」
「まったく……ほんと、女の子には見境無いんだから」
「そうなの?」
「そうよ。卒業式間際だからって、いろんな女の子に声をかけて……ほんと、プレイボーイよ」
 いつもと同じ質問と、同じ受け答え。
 何度も聞くけど、女の子の間で桜庭くんの評判は悪いみたいだった。
 実際……そうなのかもね。軽い性格とか……
「香織も、桜庭くんに迫られたことあるの?」
「まあ、ね……けど、私は前にも桜庭の告白してるところ、見たことあるから」
 苦笑しながら、香織は言葉を続けた。
「あいつ、東京の方の大学に行くから気を付けた方がいいわよ」
「気を付けるって、何を?」
「結だって東京に行くんだから。つきまとわれないようによ」
 こう毎日、同じ事を何度も言われると、説得力があるなぁ。
「うん、気を付けておく」
「結ってば、ボケーってしてるときあるからね。いつあいつの毒牙にかかるかわからないもの」
「ひどいよー。私だってしっかりしてるもん」
 ふくれながら、私は香織に抗議した。
「冗談よ。ただ、あまり関わらない方が……本当にいいわよ」
「うん」
 私は頷いて、香織の顔をじって見てみた。
 明るい口調だったけど、香織の目は笑ってなかった。
「けど、呼ばれちゃったから」
「ダメよ! すっぽかして帰った方が、絶対いいわよ」
「うーん……けど、それじゃあ桜庭くんに悪いよ」
「だったら、早く断った方がいいわ。あいつ、いつも押しの一手だから」
 確かに、強引だったものね……
「うん、そうする」
「まったく、本当にわかってるんだか」
「わかってるよぉ」
 だって、何度も迫られてるもん。
 口に出せるわけなく、私は心の中でそう呟いた。
「じゃあ、私は先生のところへ行って受け取ってこないといけないのがあるから」
「あ、うん」
「それとも、一緒に来る?」
「うーん……どうしよう」
「よお」
 私が考えていると、後ろからお兄ちゃんが声をかけてきた。
「あ、浅村くん」
「お兄ちゃん」
「結、一緒に教室戻らないか?」
 お兄ちゃんからの誘いに、いつもの私は応えてた。
 だけど……今は……
「ごめん、香織のお手伝いしてくるから」
 時間の輪から抜け出すためには……
「んじゃ、俺も手伝うよ」
「大丈夫だって、お兄ちゃんは先に教室に戻ってていいから!」
 思わず出た私の強い口調に、お兄ちゃんはビクッて身を強張らせた。
「あ……ごめん……」
「……ん、わかった。
 先に教室行って待ってるよ」
 お兄ちゃんはそう言って、教室の方に戻っていった。
 ちょっと……やりすぎたかなぁ。
「ねえ、結……何かあったの?」
 やっぱり、香織が心配そうにあたしの顔を覗き込んできた。
「う、ううん。何でもないよ」
「本当?」
「本当だって。だから、行こう?」
 私は気を取り直して、香織の手を取った。
「そうね」
 香織はそう言って、職員室の方へと歩き出した。
 ……ごめん、お兄ちゃん。
 今の私には、心の中でそう謝ることしかできなかった。

 4

「配布物はこれで全部配ったな。
 それじゃあ、今日のホームルームはこれで終わりだ。お前ら、明日は風邪引いたりするなよ」
「はぁいっ」
「それじゃ、帰っていいぞ」
 先生のその声で、教室中がざわめきだす。
 みんな、卒業式の一日前を惜しむみたいにお喋りとかを始めた。
 私はっていうと、掃除の疲れが残ってるせいで、まだ席を立つ気になれなかった。
 机を一杯運んだり、動き回ったりしたからね……もうちょっと、こうしていよう。
「結、お疲れ」
 お兄ちゃんが私のところに来て、声をかけてきた。
「あ、お兄ちゃん」
「掃除、大丈夫だったか?」
 心配するように、お兄ちゃんが尋ねてきた。
「うん、少し疲れただけ。
 お兄ちゃん、これからどうするの?」
「俺は……一緒に帰りたいんだけどさ、ちょっと呼ばれてるからさ」
「呼ばれてるって、誰に?」
 知ってはいるけど、とりあえず聞いてみる。
「高瀬だよ。屋上に来てくれって」
 やっぱり、ね。
 さっき香織がお兄ちゃんの机の近くでごそごそやっていたし、いつもと同じ事だったから、返事はもうわかってた。
「ふうん」
「だから、先に帰っててもいいぞ。帰り、いつになるか解らないから」
「うん、わかった」
「じゃ、な」
 私は軽く手を挙げて、お兄ちゃんの後ろ姿を見送った。
 これから、香織の告白を受けるんだよね……
 その結果を分かっている私は、香織のことがなんだか気の毒になった。
 当の香織は、教壇に上がって余った配布物の整理をしている。
 体育館で私を誘った桜庭くんは、今この場にいない。
 昨日までとほとんど一緒。
 違うのは、私が起こしたいくつかの行動だけ……
 それ以外は、幾度も繰り返した日々をまたリピートしていた。
 また、今日もダメなのかな……
「結、お疲れさま」
「お疲れさま、香織」
 ぼーっとしかけてた私の目の前に、香織がやってきた。
「やっぱり、さっきの掃除がきつかった?」
「うーん、そうかも」
「あまり無理しなくて良かったのに」
「だって、最後の掃除だもん。私だってちゃんとやりたいよ」
 いつ時間の輪から飛び出すかわからないから……これだけは、しっかりやっておこうと思った。
「なるほどね。けど、無理は禁物だからね」
「うんっ」
「それじゃあ、今日は先に帰るからね」
 そう言って、香織は自分の鞄を手に取った。
「帰り、気を付けてね」
「大丈夫よ。結こそ、桜庭には気を付けるのよ」
 そう。
 この後、私は桜庭くんに呼ばれてるんだった……
「大丈夫、すぐに断るから」
「そうそう、その感じ。
 それじゃあ、また明日ね」
 香織は、笑顔で手を振って歩き出した。
「うん、また卒業式で」
 私も手を振って、それに応える。
 香織が外に出ていったのを見送って、私もゆっくり立ち上がった。
 この後、ドアの近くまで行けば……
「あ、結ちゃん」
 ほら。
 桜庭くんが嬉しそうな顔をしながら、私の前にやってきた。
「桜庭くん、どうしたの?」
 ちょっととぼけて言ってみる。
「どうしたのじゃないよ。さっき、俺が呼んだでしょ?」
「あ、そういえば……」
「だから、呼びに来たんだ」
 さっきよりも嬉しそうな顔をしている桜庭くん。
 ……香織が言ったこと、桜庭くんが来るたびにわかるような気がする。
「それじゃ、行こうか」
「行くって……どこへ?」
「二人っきりで話したいから……そうだ、屋上の方に行こうか」
「屋上の方……?」
 私がそう言うと、桜庭くんは自分の唇に人差し指を当てて「心配ない」っていう風なポーズを取った。
「別にやましいことはしないって。ただ、二人きりで話をしたいだけ」
「う、うん……」
「だったら決まりだ。じゃあ、上に行こう」
 そう言った桜庭くんは、私の手を取って階段の方に歩き出した。
「さ、桜庭くん、痛いよ」
「あっ、ごめんごめん」
 桜庭くんはそう言ったけど、軽く手の力を緩めただけで、歩くスピードはそのままだった。
 まるで、自分のためだけに歩いてるみたい。

 階段を昇っている間も、桜庭くんは歩くスピードを緩めなかった。
 それどころか、さっきより速く歩いていて……なんだか、呼吸するのが苦しくなってる。
 こればっかりは何度されても慣れなくて……時々気が遠くなりそうな気がするわね。
 だけど、なんとか五階の踊り場まで辿り着くことができた。
 そして……
「きゃっ!」
 私の背中に、鈍い痛みが走った。
 桜庭くんが、私を壁に押しつけるような形で迫ってきたから……
「さ、桜庭くん?」
「結ちゃん……頼みがあるんだ」
 私の言葉を遮るみたいにして、桜庭くんが私の方に迫ってきた。
 ダメ、これだけは慣れない……
「な、なに……?」
「俺と……付き合ってくれないかな」
 また、この言葉。
 興味もない男の子にこう言われても、私は何も感じない。
 それどころか……何度も言われてるせいか、嫌気がさしてきた。
「えっ……」
「好きだったんだ、ずっと」
 私の目を、桜庭くんが真剣そうな目で見つめてくる。
 だけど、言葉はただ強引なだけだし……それに、私のこと、思いやってくれてない。
 それが、私には嫌だった。
 何度もこうされてるから、なおさらに……
「一目見たときからさ、結ちゃんのこと……」
「だ、だめだよ。私……桜庭くんのこと、何も知らないもん」
 そう言ってみるけど……
「大丈夫だって、これから知ればいいんだから」
 やっぱり効果はない。
 というか……なんか、桜庭くんに口実を与えてるだけみたい。
「だけど、私は好きな人……」
「浅村……とか言わないよな」
 そう言われて……私は、ただ黙ることしかできなかった。
「そんなわけないよな。君と浅村は兄妹なんだから。
 けど、もし他に好きな人がいるんなら……名前、言ってくれるかい?」
「…………」
 言えるわけなかった。
 だって……好きな人っていったら……
 私はただ、沈黙することしか……

 と。
 階段の方から、ぱたぱたと足音が聞こえてきた。
 私がそっちを見ると、桜庭くんも気付いたみたいで、階段の方へ振り向いた。
 階段から下りてくる人が誰かは……それはもうわかりきっていることだけど、やっぱり心苦しい。
 そして……
「あ……」
 香織が……階段を足早に駆けていった。
 伏せていた顔は……涙に濡れて、まるで悔しそうに歪んでた……
 さっきまでの笑顔と、まったく正反対の……絶対、見たくない表情。
 何度も見るたびに……私の心が、痛んでいく。
 香織はそのまま、私たちに気付かないまま階段を駆け下りていった……

「…………」
 そんな香織の様子を無視するみたいに、桜庭くんは私の方へ向き直って、また私のことを見つめだした。
「だからさ……頼むよ」
 最低。
 泣いてる女の子を見て、何も思わないなんて……
 何度もあった風景だけど……見るたびに、桜庭くんに対してむかついてくる。
「だけど、突然だなんて」
「本当なんだ。俺、結ちゃんのことが好きなんだよ」
 そんな言葉も、軽々しく聞こえて……
「真剣なんだ……」
 私はただ、黙ってることしかできなかった。
「だからさ……」
 また、桜庭くんが私に顔を近づけてくる。
「東京に行く前に……言っておきたかったんだ」
「だけど……」
 私が困惑したみたいに言ってみても、桜庭くんがやめる様子はない。
「返事をくれないかな……時間がないから……」
 冷静にならないと……
 もうすぐだから。
 もう少しすれば……
「なにやってんだよ」
 ……お兄ちゃんの声。
 その声に、桜庭くんは驚いたみたいに後ろを向いた。
 桜庭くんの背後に……お兄ちゃんが桜庭くんを睨み付けるようにして立っている。
 低くて、押し殺したみたいな声。
 お兄ちゃんが、強く怒ってる証拠……
「……あっ、いや……浅村か」
「結に何言ってたんだ?」
 お兄ちゃんは目つきをきつくしながら、桜庭くんに詰め寄った。
「いや、なんでもないんだ。ただ、ちょっと結ちゃんに話があってさ……」
「どんな話だよ」
「お前に話すような話じゃないよ」
 桜庭くんの言葉に、お兄ちゃんは肩を小さく震わせた。
 だけど、無視するみたいに私の方を向くと、
「結、帰るぞ」
 そう言って、階段を降り始めた。
 私も、お兄ちゃんについていこうとした。
 だけど……
「あ……」
 ほとんど何も変わってない、今日。
 別の行動をしても、すぐ元通りになった日常。
 多分、明日も今日のままかもしれない。
 ……大きな行動を起こさない限りは。
 けれど……
 その後のことを想像して、私はなんだか自分が嫌になった。
 何をされるか……なんとなくわかったから。
 それでも……
「……お兄ちゃん」
 今日を抜け出せるなら……
「……私、桜庭くんと……」
 少しだけなら、構わない。
「……一緒に、帰るから……」
 お兄ちゃんと帰ったら……
「えっ……」

「私……桜庭くんと行くから……」

 また、今日のままかもしれない……
 それだけは、もう嫌なの。
 こうやって迫られるのも。
 香織の泣き顔を見るのも。
 ずっと同じ日が繰り返されるのも。
「ほ、ほんと? 結ちゃん」
 桜庭くんの言葉に……私は、ゆっくり頷いた。
「お、おいっ、結!?」
 なんだか、お兄ちゃんの顔を見るのが怖くて……
「……行こう、桜庭くん」
 私は顔を背けながら、桜庭くんの手を引いた。
 お兄ちゃんなら、しっかりできると思うから……
「ああ、行こうっ!」
 私は、桜庭くんと一緒に行ってくるから……
「なあ、結、冗談だろ!?」
 聞こえない。
 聞こえないと思わなきゃいけない。
「結、一緒に帰るぞ!」
 だめ。
 帰ったら、またいつも通りだもの……
「なあ、結!」
「お兄ちゃん」
 振り向いたけど……
「先、帰ってて」
 お兄ちゃんの顔が、まっすぐ見れない。
「私は、大丈夫だから」
 笑顔を作って、また歩き出す。
 その時に見た、お兄ちゃんの表情は、
「結……」
 本当に、悲しそうだった……


 ごめんね。
 お兄ちゃん……
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