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ガラスのラビリンス

第1章

 1

「よっ……と」
 フェンスにかけていた手に力を入れて、俺はその上に飛び乗った。
 腹這いになりながら向きを変え、ゆっくりと地面に降りる。
 フェンスを背にして振り返った俺は、そのままフェンスに体を預けて辺りを見回した。
 広がるのは、夕陽に暮れていく街。
 オレンジ色の光があたりを照らし、雪の積もる山にそれが映える。
 暖かく見える光景だけど、時折吹きつける風と、真下に広がる林の雪化粧にすぐ厳しい冬へと引き戻される。
 俺はコートのポケットに手を入れて、そんな光景を眺めていた。
 今までも昼休みとか授業を抜け出したりして来ていたけど、やっぱりこの季節の景色が一番綺麗だと思う。
 住んでいる街が一望できるし、雪が積もっているのが、一番この街らしいしな。
 けど、ここからこの景色が見れるのも、今日で終わりだ。
 俺は明日、この学校を卒業する。
 この学校へも、もうまともに来ることはないだろう。
 呼び出したあいつに、ちょっとは感謝しないとな……
 そう思いながら、俺はコートのポケットの中から折り畳んである紙切れを取り出した。
 それを開いて、もう一度内容を確認してみる。

『話があるので、放課後屋上に来て下さい              高瀬 香織』

 高瀬香織……中学時代からの知り合いの一人だ。
 俺と一緒のクラスで学級委員をしていて、クラスのみんなからも人気がある。
 けど、俺とはほとんど話したことがない。
 何度か、俺の妹と話しているのを見かけたことはあるんだけど。
 だから、はっきり言ってしまえば呼ばれる筋合いなんて無い。
 ポケットに紙切れを戻して、俺はまたフェンスに寄りかかった。
 放課後になって結構経つのに、高瀬が来る気配はまだない。
「……寒い」
 屋上に吹く風は、強く冷たい。
 そんな寒さも、もうここに来て味わうことはできないと思うと、感慨深く感じる。
 コートの襟を立てて風よけにすると、少しはその寒さも和らいでくる。
 ……これ以上寒くなるのは嫌だから、このままでいるか。
 そう思いながら、俺はため息をついた。

 ガチャ……

 フェンスの内側から、何かが閉じる音が聞こえてきた。
 少しだけ後ろを向いてみると、見知った女の子がこっちに向かって歩いてきた。
「浅村くん、校則違反ね」
 苦笑しながら、高瀬はこっちのほうへやってきた。
「別にいいじゃんか、眺めいいんだしさ」
「落ちても知らないわよ」
「俺はそんなヘマしねえよ」
「あははっ……確かにそうかもね」
 おかしそうに笑ってる高瀬。
 普段は落ち着いている高瀬だけど、なぜか今日は落ち着きがなさそうに見える。
 さっきから俺と目線を合わせようとしないし……一体、何なんだ?
「で、用事って何だ?」
 俺はまた景色のほうに目をやりながら、そう口にした。
「うん……ちょっと、ね」
 だんだんか細くなっていく高瀬の声。
 いつもの高瀬ならもっとちゃんと物事を言うのに、今日はさっきからどうもはっきりしない。
「……頼み事か何かか?」
 しょうがないから、俺から問いかけてみる。
「うん、そんなところ」
「で、何だ?」
 俺がそう言うと、高瀬はまた黙り込んだ。
 ただ、吹きつける風の音だけがあたりに響く。
「まったく、はっきり言えって!」
 俺は中の方に振り返って、高瀬のことを睨み付けた。
「きゃ! ご、ごめんなさい……」
 そう言って、また俯く高瀬。
 まったく、何なんだよ……
 いいかげんイライラしてきた俺は、フェンスのほうに向くと、一番上に手をかけて飛び乗った。
 足を勢いのまま一番上に乗せて、そのまま向こう側にジャンプする。
「よっ……と」
 右足で着地して、そのまま高瀬の方を向く。
「……で、何だ?」
 手を払いながら、高瀬にまた問いかけてみる。
「あの……」
「うん?」
 また俯く高瀬。
 俺はまたフェンスに寄りかかって、高瀬の返事を待つことにした。
「……お願いがあるんだけど」
「だから何だって」
「…………」
「はぁ……何も言わないなら、俺は帰るぞ」
 俺は置いといた鞄を手にして、出口のほうに歩いていこうとした。
「あ、待ってよ!」
 けど、高瀬が俺のほうを向いて、絞り出すような声を上げた。
「……言うから」
「だったら、早くしろよ」
「…………」
「…………」
 また、流れる沈黙。
 俺が『いい加減にしろ』と言おうと思った、その時だった。

「……私と付き合って」
「……えっ?」
 思いも寄らない高瀬に言葉に、俺は思わず硬直した。
「ずっと、中学のときから浅村くんのことが好きだったから……だから、今日が最後のチャンスかな、って思って……」
 そう言って、また俯く高瀬。
 ……正直、突然そういうことを言われても困るだけだ。
 俺はあまり高瀬のことを知らないし、そんなに話したことだってない。
 だから、その言葉に対して出来る返事はたった一つだけだった。
 それに、もう一つ。
 俺には、そういう言葉を受けられない理由があった。
「悪ぃ……俺、今そういうの無理だわ……」
「……どうして?」
 怯えるような目で俺のことを見上げる高瀬。
 それを見た俺の心が、少し痛む。
「今さ……あいつのことを守ってやるだけで精一杯だからさ……わかるだろ?」
 中学時代から一緒の高瀬ならわかってるはずだ。
 俺の妹……結のことを。

 結は生まれつき体が弱くて、幾度も入院したことがある。
 卒業前の今でこそ倒れることも少なくなったけど、それでも長時間の運動とかは医者から止められいる。
 父さんはもう何年も前に死んでいるし、母さんも仕事で家に帰ってくるのはとても遅い。
 だから、いつも俺がそばにいてやらないといけなかった。
 そして、これ以上負担が増えることは、俺にとって重圧に他ならない。

「わかってるわよ……けど、明日になったら結は東京に行くんでしょ? 浅村くんはここの大学通うんだし」
 高瀬の声が、小さく震えた気がした。
 確かに、結は明日の夕方にはここを発って東京の美術専門学校の寮に行く。
「だけどさ……離れてても、あいつのこと守らないといけないから」
「どうやって? どうやって守るのよ」
「電話とかしてやったり、手紙、とかさ……」
「何言ってるの!?」
 突然、高瀬が語調を強めて俺に迫ってきた。
「結はね、浅村くんから独り立ちするために東京に行くって決めたはずなのよ!? その浅村くんが結のため、結のためって言ってるって……そんなの、意味無いじゃない!」
「そうかもしれない。けど……俺は、結を守るしかないから……」
「浅村くんも、結のこと守ってばかりだと、先に進むことできないわよ」
「…………」
「あたし、あきらめないからね。浅村くんのこと……」
 そう言って、高瀬は出口のほうへと歩き出した。
「浅村くん」
 ドアノブに手をかけた高瀬が、振り向きもせずに俺の名前を呼んだ。
「……なんだ?」
「変わったね……中学のときと」
「言うな!」
 思い出したくない高瀬の言葉に、俺は思わず怒鳴り声を上げてしまった。
 今でも夢に見る……一番言って欲しくない言葉。
 幾度も言われ続けたから……もう、そんなことは言って欲しくなかった。
「…………」
 高瀬は、また肩を震わせながらドアを開けて……何も言わずに、中へと入っていった。
 後に残ったのは、ドアが重く閉まる音だけ。
 俺一人になった屋上には、ただ冷たい風が吹きつけている。
「……ちっ!」
 高瀬の言葉に苛立たしくなって、俺はフェンスに拳を思い切り叩きつけた。
 手に痛みが走るのと一緒に、辺りに鈍い金属音が響く。
 俺の苛立った気持ちを発散させるには、それで十分だった。

 2

 ドアを閉じて、深くため息をつく。
 寒い外と違って、暖房の効いてる校内はずっと暖かかった。
 天窓からは夕陽が差し込んできて、廊下を明るく照らしている。
 それが、ちょっとだけ心を和ませてくれた。
 さっきのことは忘れて……とっとと帰るか。
 鞄を背負い直して、俺は階段を降りることにした。
 ゆっくりと、一段ずつ降りていく。
 陽の光が暖かくて、なんだか気持ちいい。
 ホント、もうすぐ春なんだな。
 初めて、一人で迎える春。
 もう、俺が結と一緒に春を迎えることはできないんだよなぁ。
 そう思うだけで、少し寂しくなる。
 いつも一緒だった結が、明日からはもういなくなる。
 そんなこと、今まで全く考えたこともなかった。
 これからも、ずっと一緒だと思っていたんだから……

 秋。
 そろそろ進学先を決めないといけない時期のことだった。
 てっきり同じ大学に進学すると思っていた結が、話を切り出してきた。

「お兄ちゃん、私、東京の専門学校通うことにするから」

 笑顔でそう言う結に母さんは了承したけれど、俺は最初から「絶対ダメだ」と言い続けてきた。
 体が弱く、いつ倒れるかわからないのに、東京で一人暮らしだなんて結にさせられるわけがなかった。
 だけど、結はどうしても東京に行くと、俺の言葉を聞いてくれなかった。
「どうしても絵の勉強したいから……だからお願い、東京に行かせて!」
 元はといえば、俺が結に絵を描くことを勧めたんだった。
 そして、あの弱かった結が、自分から願って東京へ行きたいと言っている……
、結のその言葉に、俺は反論することができなかった。
 結がせっかく見つけた『目指したい夢』を、俺の手で摘み取りたくはなかった。
 結局……数日後、俺は結が専門学校に入ることを認めた。

 出来ることなら、一緒の大学に行きたかったんだけどな。
 まあ、結の決めたことなんだから仕方がない。
 何度こう思ったかわからないけど……それが、俺の正直な気持ちだ。
 俺は何度もため息をつきながら、階段を降りていった。

「……からさ」
 ん?
 下の階のほうから、なんだか言い争うような声が聞こえてきた。
 俺は身を乗り出して、階下の踊り場を覗き込んでみた。
 ……おい。
 嘘だろ?
 そこには、結が窓を背にして……同じクラスの桜庭が結に迫るようにして見つめていた。
「東京に行く前に、言っておきたかったんだ」
「だけど……」
「返事をくれないかな……時間がないから」
 あいつ……じりじりと結に迫ってやがる……
 俺はつとめて冷静を装ったまま、階段をゆっくりと降りていった。
 幾度も夢に見た、恐れていたこと。
 それが現実に今起きていることに、俺は腹が立ってきた。
 少しずつ、二人に近づいていく。
 桜庭の後ろ姿と俯いてる結の姿が見えても、歩くペースは変えない。
 そして、桜庭の後ろに立った俺は、ゆっくり口を開いた。
「なにやってんだよ」
 俺の言葉に、桜庭が驚いたように振り向く。
「あっ、いや……浅村か」
「結に何言ってたんだ?」
 俺は目つきをきつくしながら、桜庭を問いただした。
「いや、なんでもないんだ。ただ、ちょっと結ちゃんに話があってさ」
「どんな話だよ」
「お前に話すような話じゃないよ」
 その言葉に内心ムッとしたけど、俺は無視するようにして結に言葉をかけることにした。
「結、帰るぞ」
 そう言って、階段を降り始める。
「あ……うん」
 俺を追いかけるようにして、結が隣にやってくる。
 どこか怯えたような目で、俺のことを横顔で見る。
「おい、浅村」
 帰ろうとする俺の後ろから、桜庭が声をかけてくる。
「何だ?」
「さっき、高瀬が泣きながら階段を降りてきたぞ……何かあったのか?」
「何でもねえよ」
「そういうことにしておくけどな……いい加減、結ちゃんのそばから離れたらどうだ?」
 ……この野郎!
「桜庭ぁ!」
「お兄ちゃん、やめてっ! 
 桜庭くんも、変なこと言うのやめてよ……」
 その結の叫び声に、俺ははっとして結のことを見た。
「……悪い」
「ごめん、結ちゃん……」
「行こう、お兄ちゃん……」
 結は俺のコートの袖を軽く引っ張って、そう促した。
「あ、ああ……帰るか」
 俯いたままの結の横に立って、俺たちは階段を降り始めた。
 夕陽が射す階段に、俺達二人の靴音だけが響く。
 結は喋ろうともしないし、俺も結と話せるような雰囲気じゃなかった。

 校門を出ても、結は俺を避けるようにして前を歩いていた。
 学校の中とは違って、寒くて鋭い風が俺達に容赦なく吹きつける。
 マフラーをかけてるおかげか、そんなに寒くないけど、結はマフラーも付けずに先へ行こうとする。
「なあ、結」
「……なに?」
 振り向いた結の首に、俺は自分の首に付けていたマフラーをかけてやった。
「わっ」
 結が、驚いたようにマフラーに手をかける。
 黒いマフラーに、結の白いリストバンドが映える。
「寒いだろ。ちゃんとかけないとな」
 そう言って、微笑んでやる。
「うんっ」
 不安げだった結の表情が、ぱっと明るくなった。
「帰ろうぜ……家にさ」
「そうだねっ」
 俺の隣に、結がくっついてきた。
 結がよくやってくる仕草だ。
 俺達は、再び家への道を歩きだした。
 だけど、またすぐに沈黙が流れる。
 寄り添っている結の表情はいつもと同じだけど、どこか話しにくい。
 さっきの話題をぶり返すのもいけないしな……
「お兄ちゃん」
 突然呼ばれて、俺は思わず体を強張らせてしまった。
「あ……なんだ?」
「私ね……桜庭くんから告白されちゃった」
 それを聞いた瞬間、俺の拳に力がこもった。
 結は何気なく言ったつもりなんだろうけど……俺がショックを受けるのには十分だった。
「……それで?」
 つとめて平静を装って、俺は言った。
「だけどね……返事、できなかったの」
「えっ?」
「何度も返事してって言われたけど……私、桜庭くんのことが好きかどうかもわからないし、それに……お兄ちゃんが来たから」
 結はそう言って、俺のことを見上げた。
「もしもお兄ちゃんが来なかったら……私、桜庭くんに負けて返事してたかもしれないね」
 そう言って苦笑する結だったけど、俺は心苦しくなって、ただ頷くことしか出来なかった。
 ふと、大きなため息をつきながら空を見上げてみる。
 さっきまで綺麗な夕焼けだった空が、厚い雲に覆われ始めていた。
 今にも、雪が降りそうな感じだ。
 それから家に帰るまでの間、結と桜庭、それに高瀬の言葉が、俺の頭の中でずっと響いていた。
 まるで、幾度も同じようなことを言われたみたいに。

 3

「あ、雪」
 窓の外を見つめていた結が、ふと呟いた。
「えっ?」
 見ると、さっきまで真っ暗だった外に純白の粉雪が降り注いでいた。
「ほんとだな」
「雪かぁ……今日が見納めだね」
「東京じゃあまり降らないっていうからな。お前、雪が好きだもんな」
「うん。だって、雪って冷たいけど綺麗だからね。降ってるのも積もってるのも、見てて飽きないよ」
 そう言いながら、結は弁当を食べる手を止めて、窓の外を嬉しそうに眺めていた。
 俺は早く食べろとせかそうとしたけど、そんな結の顔を見て、ただ苦笑することしかできなかった。
 それに、家に帰ってきて始めての会話っていうこともあったから、なおさらだ。
 家に帰ってきてからも、俺と結は気まずい雰囲気のままだった。
 結は喋ろうともしないし、ああいう話をした手前、俺も結に話しかけにくかった。
 だから……降ってくれた雪に、感謝だな。
 俺もフォークを置いて、結と一緒に外の雪を見ることにした。
 ついさっきまで粉雪だったのが、だんだんと牡丹雪へと変わってゆく。
 小さい頃、二人して、よくこうやって窓の外の雪を見てたよな。
 ベッドで寝てる結のそばにいてやって、一晩中見てたりして……
 今日が最後の夜っていうこともあるのかもしれないけど、そんな思い出が、次々と浮かんでくる。
 もう、結といられる時間は少ないから……さっきのことは、忘れよう。
 そう、思った。

「ねえ、お兄ちゃん」
 と、結が俺の方を向き直して口を開いた。
「何だ?」
「いろいろあったよね。この街で」
 突然の結の言葉にびっくりしたけど、気を取り直して返事する。
「そうだな。十八年間、いろいろと」
「ずっと……お兄ちゃんに守られっぱなしで、よかったのかな?」
 帰り道のときみたいに苦笑する結。
 俺も思わず苦笑して、言葉を返した。
「別にいいんだよ。
 約束したんだからな、お前をずっと守ってやるんだって」
「そう……だよね」
「何か、あったのか?」
 結の変な様子を見て、俺は少しだけ身を乗り出した。
「ううん、なんでもないの。
 ずっと守ってくれたから……これから、どうなるのかなあって思っただけ」
「お前一人だもんな……本当に、やってけるのか?」
「大丈夫だよ。ちょっとは体も丈夫になったし、お料理だって少しはできるし、一人暮らしできるようにちゃんと努力したんだから」
 自信がありげに言う結だったけど、その表情はさっきとあまり変わらなかった。
「そうだといいんだけどな」
「あっ、お兄ちゃん、無理だと思ってない?」
「いや、そんなことないぞ」
 思ってるのとは逆のことを、俺は言っておくことにした。
 今までずっと結のことを見ていたけど、いつかは諦めてしまうんじゃないか……そんな考えが、俺の頭の中にはあった。
「……嘘、ついてない?」
 睨むように俺を見つめる結。
「ついてないって。お前のことずっと見てきたんだからさ」
「だったらいいけど……」
「だけど、心配なのは確かだぞ」
 こればっかりは、嘘を言ったってしょうがない。
「ちゃんとわかってるよ、それは。
 だけど、これからは私一人でいろいろやっていかないといけないし、お兄ちゃんが心配しないように頑張らないとっ」
 頼もしいもんだな、昔に比べて。
 昔はあんなに「お兄ちゃん、お兄ちゃん」って頼ってきたけど、こう思うようになるなんてな。
 ちょっと寂しい気もするけど、やっぱり嬉しいことには変わらない。
「そうだな……だけど、何かあったら連絡しろよ。出来ることは、俺がしてやるから」
 俺がそう言うと、結はちょっとだけ笑顔を浮かべて頷いた。
「お兄ちゃん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
 改まった言い方で、結が俺に聞いてくる。
「うん? 何だ?」
「もしもだよ。
 もしも、今日みたいな日がずっと続くとしたら……それでも、いいと思う?」
 その質問を聞いて、俺は思わず考え込んだ。
 今日みたいな日……結と最後にずっといられる日。
 結がどこにも行かずに、俺といっしょにいてくれる。
 そんな日ばかりだったら……どうなんだろう。
 嬉しいのかもしれないし、ずっと退屈なのかもしれない。
 その毎日に変化があるならいいとは思うけど、ずっと同じような日だったら我慢できないと思う。
 正直、どう答えていいかわからない質問だった。
「わからないな……
 今日みたいな日が続けばいいんだけど、ただ、同じような日だったら……俺は嫌だ」
「ふうん……」
 それだけ言って、結が俺のことを見つめる。
「な、何だよ」
「ううん、何でもないよ。ただちょっと聞いてみたかっただけだから」
 そう言って、結はまた弁当の肉じゃがを食べ始めた。
「で、結はどうなんだ?」
 俺もフォークを持ち直しながら、それとなく聞いてみる。
「私は……嫌、かな」
「どうしてだ?」
「だって、変わらない日常は嫌だし、先に進んでいきたいんだもん」
 結の淡々とした、しかも簡単な言い方に、俺はなんだか拍子抜けした。
 ……俺は、何を期待していたんだろうな。
「なるほどな」
 納得したように俺が頷くと、結も軽く頷いて食べることに専念し始めた。
 俺が話を切ってしまった形で……また、俺達の間に沈黙が流れてしまった。

「ごちそうさま」
「ごちそうさまぁ」
 結局、俺達が夕飯を食べ終わる頃には九時半をまわっていた。
 パスタも弁当もすっかり冷め切っていたけど、結と一緒に食べれればそれでよかった。
 俺はパックをまとめて袋に入れると、ゴミ箱に投げ入れた。
 その間に、結は空になった湯呑みをキッチンに持っていった。
 外の雪はもっと強くなって、風も少し強くなっている。
「結構降ってきたな」
 窓がガタガタ鳴るたびに、雪がガラスに張り付くように吹きつけてくる。
 夕方のあの夕焼けが、まるで嘘みたいだ。
「お兄ちゃん、私そろそろ寝るから」
 見ると、結が手を拭きながらキッチンから出てくるところだった。
「こんな時間にか? 確かに早く寝たほうがいいけど……まだ早すぎるぞ」
「だって、明日早く起きていろいろ準備とかしなきゃいけないし……」
「そうだな……わかった、しっかり寝ておけよ」
「うん。お兄ちゃんも早めに寝なよ」
 そう言って、結はコートを手にリビングを出ていった。
 階段を上がっていく音が、リビングに小さく響く。
「ふう……」
 俺はそれを聴きながら、テーブルにゆっくりと突っ伏した。
 午後九時半……寝るにはまだ早すぎる。
 本当なら、まだ結ともっと話していたかった。
 もっと話すことはあったはずなのに……
 どうして俺は、結に「待ってくれ」って言えなかったんだろう。
 そう言えば、もっといっぱい話せたはずなのに……
 そう言えば、もっと結の顔を見てられたはずなのに……
 後悔すればするほど、だんだんキリがなくなってくる。
 俺は顔を上げて、リビングをもう一度見渡した。
 俺だけしかいない、だだっ広い場所。
 母さんが帰ってきても、ただ二人きりの場所。
 結がいなくなったら、こういう生活がずっと続くのかと思うと……なんだか、急に寂しく思えてくる。
 多分、いつになっても慣れないんだろうな……
 しょうがなく、俺はコートを手に取って自分の部屋に戻ることにした。
 暖房のスイッチを切って、部屋の電気も全部消す。
 真っ暗な空間になったリビングを見てから、俺はゆっくりとドアを閉じた。

 4

 後ろ手で、ドアをゆっくり閉める。
 コートをベッドの上に置いてから、部屋を見渡す。
 机とベッドだけの、寂しい部屋。
 あとは全部、東京のほうに送っちゃったから何もない。
 だけど……
 私はこの部屋で幾度も同じ日を過ごしている。
 何度も何度も、変わらない日。
 最初、私はそれに気付かないままずっと同じ日を生活していた。
 最初は、私も夢かと思っていた。
 だけど、私が描いている絵が、このことを現実だと気付かせてくれた。
 寝る前に、いつも描いていたラフ絵。
 机の引き出しを開けてみると、中からは私が描いた絵がたくさん出てくる。
 しかも……ほとんど同じ構図で、同じ人物、そして、同じ日付。
 同じ日の積み重ねのおかげで、私は同じ時を回っているっていうことに気付いた。
 いつ頃から、この日に留まっているんだろう。
 どうして、この時間に填っているんだろう。
 それがわからなくなるほど、この時間を幾度も過ごしてきた。
 今日もまた、ほとんど同じ日。
 いつものようにみんなと別れて、桜庭くんに迫られて、お兄ちゃんと帰って……そんな日。
 ただ一つ違うことは、私がお兄ちゃんに「このこと」を聞いてみたこと。
 だけど、お兄ちゃんは何も気付いてないみたいだった。
 ううん。
 それだけじゃなくて……私とこの時間をずっと過ごすことを望んでいるみたいだった。
 私と一緒にいる時間を。
 本当なら、私もそうしたいと思う。
 けど、それじゃあダメなの。
 だって……
 お兄ちゃんがくれた将来の夢に、せっかくお兄ちゃんの指し示してくれた道が、閉ざされちゃうから。
 だから、どうしてもこの時間の繰り返しから抜け出したい。
 どうしていいかわからないけど……とにかく、やってみるしかないもの。
 今、私が出来ること……
 本当に限られた中で、私はただそれをやるしかなかった。

 ベッドに腰掛けて、私はため息をついた。
 疲れてるせいかな……体中に、眠気が急に広がっていく。
 同じ出来事ををなぞることが、こんなに大変なんてね……
 苦笑いしながら、後ろに倒れ込む。
 柔らかくて、あったかくて……なんだか、眠くなって来ちゃった。
 私は制服のまま、ベッドの中に潜り込んだ。
 明日こそ……ここから抜け出さないと……
 そっと、目を閉じる。
 ふと、外で降っている雪の音が、耳に優しく聞こえてくる。
 さらさらと、小さな音をたてる雪。
 ずっと、慣れ親しんできた天気。
 みんなで一緒に楽しく過ごしたこの家。
 私が一番好きな天気。


 もし、時間の繰り返しから抜け出せたら。
 明日の朝も、この雪が降り続いていますように。
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