ガラスのラビリンス
序章
「よしっ!」
私は筆を置いて、小さくそう呟いた。
ぐっと伸びをして、眠気を飛ばす。
だけど、目は霞んでるし……肩も痛くなるほど張ってる。
立ち上がろうとしてみると、ちょっと足がふらつくほど疲れてるのがわかった。
「あっ」
もう一度座り直して、大きくため息をつく。
しょうがないよね……私の体、あまり強くないんだし。
立ちくらみなんか起こしたら、大変だもんね。
そう思いながら、キャンバスを見てみる。
さっきまでいろいろ苦労したけど……やっと、やっと出来た絵。
ここに来てからずっと描いてたけど、一ヶ月も時間がかかるなんて思わなかったなぁ。
まあ、しょうがないか。
お兄ちゃんに一番見て欲しい絵だし、私が初めてお兄ちゃんだけに描いてあげたかった絵だから……手は抜きたくなかったもんね。
私とお兄ちゃんの思い出をいっぱい詰め込んだ絵。
だけど、たった一場面の絵。
描きたかったのは、その場面だけだったから。
最後にお兄ちゃんがくれた、私との思い出だから。
だから、これだけでいいの。
手や服に付いた油の臭いが、私の鼻をつく。
そういえば、ずっと油絵やってたんだもんね……
髪の毛から足の先まで、油の臭いがこびりついてたりして。
そんなことを考えながら、もう一度、ゆっくりと立ち上がってみる。
今度は、ちゃんと立つことが出来た。
台所に入って、蛇口の栓を回す。
そして、石鹸を手にとってしっかりとこすりつける。
石鹸から出てくるラベンダーの香りをかいでいると、どこか安らぐ気がする。
手を撫で合わせながら、蛇口からの水で石鹸を洗い流す。
向こうじゃまだ冷たいはずの水も、ここだとちょっとだけ温かくて、丁度気持ちいい。
石鹸を全部洗い流したのを確認して、栓を閉める。
「ふぅ……」
冷蔵庫にかけてあるタオルを取って、手についた水をふき取った私は、ふと目の前の窓を見上げてみた。
青く、高く広がってて、雲もほとんどない。
うんっ、いい天気!
そう思いながら、タオルを手にしたまま目の前の窓を開けてみた。
「きゃっ」
突然吹き込んできた風が、私の髪をふわっと乱した。
ボサボサだった髪……もっとボサボサになっちゃったよぉ。
そう思いながら、ちょっと髪を直してもう一度外を見てみた。
子供たちのはしゃぎ声とかと一緒に、優しい風が吹き込んでくる。
……ちょっとだけ、このままでいようかな。
だって、あの時と同じみたいな風なんだもん。
お兄ちゃんに包まれながら感じた、あの時の風と。
ほんの一ヶ月前の、あの日。
お兄ちゃんとの忘れられない思い出の日にも、私はこんな風を受けていた。