ベタ塗りオッケー。
トーンは……あ、定着してねーや。トーンこすり、トーンこすりっと。
うし、定着。
それに、ホワイトの飛びもねーと。あとは、下書きを消しゴムで消すだけだな。
「ふぅ」
俺は一息つくと、すっかり冷めたココアを口にした。
もうすぐ、修羅場も終わり。これでやっと、冬こみの準備ができるぞぉ!
完徹三日目。原稿も全部揃えたし、表紙もしっかり彩色した。ペーパーの原稿もとっくに先行入稿したし、おまけのグッズなんかも発注済み。
ふっふっふっ……か、完璧だあっ!
締め切り当日にぴったり合わせたように出来上がったなんて、奇跡に近いよな。いつもだったら修羅場モードで印刷所が閉まる間際まで粘ってたのに、今回は当日の午前一時過ぎに全部完成しちゃったんだもんさ。
はぁー、これで千紗の親父さんに冷たい目で見られることはないだろうな。
いつもは温厚な親父さんだけど……さすがに原稿のことになると、別人のように厳しく接してくるし。しかも、締め切り破りそうになった日なんざ「お前に娘は渡さん!」ってな感じで見てくるから、プレッシャーがかかるかかる。
印刷所に嫁ぐために、こんなとこに障害があったなんて……って、俺が嫁いでどうする。
ともかく、原稿をしっかり上げて、株も上げておかないと。
まあ、今日はこれからゆっくり寝て、しっかり風呂入って着替えて、びしっとした格好でつかもと印刷に行くとするか。
さあ、まずは一眠りでも……
「んー」
と、俺が軽く伸びをしたその時だった。
ごとんっ
「……ん?」
肘に一瞬、ちょっと重い感覚。
それに、何かが倒れる音。
目を開けると……茶色の洪水。
さっき仕上げたばっかりの、トークと中表紙の原稿の上に……
…………
…………
ん……
「んぎゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
[ Make Yourself ]
Written by Kazuki Takatori
「ほんま、あんたってアホやなぁ」
由宇さん、そんなご無体な。
けど、今の俺に反論できる力なんて無く……ただうなだれながら、俺は黙々と原稿を描き進めていた。
ついさっきまで「ベルリンの赤い雨」なんつーネーミングのハリセン連打も受けていたんだから、尚更……
「和樹さん、元気出すです!」
ああ、千紗の声が天使の声に聞こえる……
入稿に来た人たちで印刷所がごった返している中、俺は千紗の部屋で描かせてもらっていた。
由宇は入稿ついでの、ただのひやかしらしい。
……ニヤニヤしながら見てるぐらいだったら、手伝えってんだ。
でも、もし言ったとしても「甘えるんやない!」って言って、またハリセンなんだろうな。
結局、原稿の合計被害枚数は四枚。
これが少ないようで、キツイんだ……実際。
俺の場合、ベタで光を表現するベタフラとか、トーンの濃淡を削って表現するケズリとかが多いから、線画が終わっても、それからのほうが手間がかかる。
トークの内容は覚えてるけど、それに付けるカットとかイラストはさすがに全部作り直さないといけないし、構図とかも線画の段階からまた取り直さないといけない。それを四枚分やんなきゃいけないんだから……実際、気が滅入る。
せっかく、完成してたのになぁ……
「……はぁ」
「あほー、あほー」
ううっ、由宇の奴もさっきから馬鹿にしやがって……
「は、はうっ……か、和樹さん、しっかり元気出してくださいです〜」
俺を守ってくれるのは千紗だけだよ、ううっ……
「今コーヒー入れるですっ、落ち着くですっ!」
コーヒー……茶色の液体……!?
がたんっ!
「うわっ!」
「はにゃっ!?」
「茶色……チャイロコワイヨ……ゲ、ゲンコーニコボレルヨ……」
千紗の言葉に、俺はただ部屋の片隅で震えることしかできなかった。
今の俺にとって、茶色は禁句だ……
「……あかん、こいつは相当重症やな」
「ごっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいです〜!」
「こうなったら千紗ぼー、あんたが和樹の原稿手伝ったりや」
……え?
「ち、千紗がですか?」
「そうや、たまには将来旦那さんになる人の原稿ぐらい、手伝ってもええんとちゃう?」
「にゃ、にゃあ……」
ちょ、ちょっと待て。
旦那になる云々はこの際置いておくとして、千紗が原稿……?
それって、どうしても「ベタこぼし」とか「ホワイトこぼし」「トーン削りすぎ」って印象が強いんですけど……
それこそ、バイオハザードってやつで……
「お、おい、由宇」
なんとか立ち直った俺は、由宇のことを止めようとした。
「なんや、フィアンセとの共同作業は嫌なんか?」
「そ、そうじゃなくってぇ!」
「せやったらええやん。千紗ぼーとの恋人同士の共同作業! これほど燃えるリアルなシチュエーション、そうないで!」
「待て待て待て待て!」
「にゃ……」
千紗は千紗で照れまくってるし。
「ほれ千紗ぼー、あんたはどうなんや?」
肘をつついて、促す由宇。
「千紗は……和樹さんの手伝いをしてあげたいです」
「ほれ見てみい」
「これ以上、和樹さんが苦しむ姿は見たくないです。だから、千紗も手伝うですっ!」
「で、でも、印刷所の手伝いがあるだろ?」
「今はお父さんとお母さんが一生懸命やってるです。千紗の番が来るまで、千紗はおにーさんのお手伝いをしたいです!」
「で、でも」
どうにかして、俺は千紗のことを止めようとした。
これ以上原稿にバイオハザードを撒かれたらたまらんし……
「……千紗が原稿のお手伝いするの、嫌ですか?」
「えっ……」
涙目で……千紗が少しうつむきながら、俺に問いかけた。
「千紗には、和樹さんのお手伝いはできないんですね……」
「い、いや、そうじゃなくて」
「だったら、お手伝いしたいですぅ……」
ううっ。
すがるような千紗の視線が、俺の心にグサグサ突き刺さる。
「ほれ和樹、千紗ぼーもこう言ってるんやし」
「う……」
しかも、返答に困っていると、千紗が上目遣いで……
「和樹さぁん……」
「……わかった」
俺、陥落。
結局根負けした俺は、千紗に原稿を手伝ってもらうことにした。
焚きつけた張本人の由宇は「二人の愛の営みをジャマしたらあかんし、そろそろ帰るわ」とホテルへと戻っていきやがった。
言い出しっぺなんだから、最後まで見ていけってんだ……それに何だよ、愛の営みって。俺と千紗はそんな関係……
…………
……だった、な。
すまん、千紗。
何故か罪悪感が沸いてきて、俺は心の中で千紗に謝っていた。
んで、千紗にトーン貼りとかしてもらうことになったわけだけど、なかなかどうして、これが堂に入ったものになっていた。
試しにケズリを頼んでみると、いい具合の濃淡をつけてトーンを削ってくれる。
それに、トーンカッターさばきも素早くて丁寧。下手したら、巷にいるプロよりも上手いかもしれない。
これが本当に、あの千紗なのか……?
「…………」
真剣な表情で原稿に向き合う千紗。
俺が描いたオリジナルキャラの線画に、どんどんトーンで彩りをつけてくれる。
……上手いよ、本当に。
「なあ、千紗」
「…………」
「ちーさっ」
「は、はいっ!?」
あらら、びっくりさせちまったか。
「いや、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「なんですか?」
「そのトーンのケズリ方とか、誰かに習ったのか?」
俺がそう尋ねると、千紗は「うーん」と天を仰ぎながら、
「入稿しに来る人たちが、よく仕上げしてたりしているの見ていたですよ。それに、由宇おねーさんもいろいろと教えてくれたです」
「ふーん……」
なるほど。
入稿する人が増えたことで、そういうのを目にする機会も格段に増えるだろうし……って、由宇?
由宇が、千紗に教えたっていうのか?
「千紗、由宇が教えてくれたのか?」
「教えてくれたっていうより、千紗が由宇おねーさんに頼んだですよ。それに、千紗もおにーさんのお手伝いをしてみたかったです」
……千紗ぁ。
愛いやつじゃのう。
俺は無言で、千紗の頭に手を伸ばして、そっとなでなでしてやった。
「にゃあっ」
嬉しそうに笑う千紗。
なるほど、だから由宇は千紗にやってもらえって言っていたのか。
千紗も、さすが学校主席卒業って言うべきなんだろうな。由宇のテクを、しっかりと自分の物にしてる。
後で、二人に明石焼きでもおごってやるかな。
そんなこんなで、夕方前には原稿が再完成した。
千紗がいなかったら、きっと原稿は落ちていたと思う。本当、千紗さまさまだ。
「……ふぅ」
俺は千紗の淹れてくれたレモネードを飲みながら、原稿の袋を前に一息ついていた。
「和樹さん、お疲れさまですっ」
「ああ。千紗も、本当にありがとな。千紗のおかげでいい出来の原稿が出来たし」
「にゃあ、千紗なんてまだまだですよ。やっぱり、和樹さんの足手まといになっちゃいそうで、どきどきでした」
そう言って、俺の隣で幸せそうにレモネードを飲む千紗。
「そんなことないって。千紗のレベルも大したものだよ」
「ふにゃ……」
あ、照れてる照れてる。
そんな千紗を見て、俺の頬もさっきからずっと緩みっぱなしだ。
「また今度、なにかあったらお手伝いするですよ」
「そう言ってくれると助かるな。だけど、印刷所が忙しい時とかは、俺のほうはいいからさ」
「でも……」
「でもじゃないって。今回こんなことがあったけど、いつもは俺も大丈夫だから。俺だけじゃなく、印刷を頼みに来た人たちのほうも、しっかりとやってあげないと」
「は、はい」
千紗はちょっと困った顔で、俺のことを見ていた。
「千紗は、ゆくゆくはこの印刷所を継ぎたいと思ってるんだろ?」
「もちろんです。お父さんとお母さんのお手伝いも、いっぱいしたいです」
「だったら、俺だけじゃなくていろんな人と接さないとな。
俺も……千紗と結婚したら、一緒にがんばらないといけないんだろうけどさ」
「えっ?」
千紗の頬が、赤く染まる。
俺も今、そうなんだろうけど……
「結婚して、千紗が印刷所を継ぐなら、俺だって印刷所の一員になるわけだろ?」
「そ、そうですね」
「そのときには、俺もいろいろと千紗から教わらないといけないと思う」
「そんな、千紗が教えることなんて……」
「いや、印刷の事とか細かいことに関しては、俺ってほとんどズブの素人だし、そういう点で、俺にとって千紗は先輩になるんだ」
「…………」
「だから」
そう言って、千紗の頭を軽く撫でる。
「いっぱいいろいろな経験をして、俺に教えてほしいな」
「……はいです」
ほんのりと頬を赤く染めながら、千紗が微笑む。
なんか、ちょっとばかり大人びた……そんな落ち着いた笑顔。
……そうだよな。
俺と千紗が出会ってから、かなりの時が過ぎているんだもんな。
あのときは子供っぽかった千紗も、気付かない間にどんどん成長してるんだ。
いつまでも、出会った頃の「妹みたいな女の子」っていうわけじゃないんだよな。
ちょっと、寂しい気もするけど。
「和樹さん……」
「ん?」
「本当に、つかもと印刷をいっしょにやってくれるですか?」
「当たり前だろ。千紗にとって、お父さんとお母さん、そして、俺にとって……大事な大事な場所なんだからさ」
「でも、もしも和樹さんの好きな漫画が出来なくなったら……」
「千紗」
俺は、千紗に向き直って再び口を開いた。
「俺さ、ここで千紗の手伝いとかしていて、わかったことがあるんだよ。
確かに、一冊の作品を作っていくのは楽しい。でも、その後ろにはいつも印刷所の人たちの苦労っていうのがあるってわかった。苦しいけど……いろいろな人から託された原稿を、一冊の本っていう形にしていくのがとても楽しいんだよな」
「はいです」
千紗が、小さく頷く。
「千紗、お父さんとお母さんの苦労、いっぱい見てきたです……でも、一冊でも原稿が来ると、二人とも幸せそうに仕事するです。忙しい今でも、とっても幸せそうに一冊一冊仕上げるですよ。
千紗も、お手伝いしてからわかりました。いろいろな人の、いろいろな想いが詰まった原稿を本にするって、大変だけど楽しいです。だから、千紗も印刷所を継ぎたいです」
さっきまでの不安げな顔が嘘のように、千紗の表情は真剣になっていた。
それだけ……本当に、印刷することが大好きなんだろう。
「だったら、俺も継ぎたい。
俺だけの本を作るんじゃなくて、みんなの本を作るっていうの……やりたいしさ。俺も、つかもと印刷で、千紗と一緒に仕事したい」
「……千紗も、和樹さんと一緒に本が作りたいです」
「だったら、決まりだな」
俺は千紗の肩をぽんっと叩いた。
「はいですっ!」
千紗も、笑顔で応える。
「それじゃあ」
「?」
きょとんとした目で見る千紗に、俺は……
ちゅっ
「…………」
千紗の頬に、そっと唇をつけた。
優しい、少しだけのキス。
「今回の、お礼だよ」
「……にゃあ」
またまた顔が赤くなる千紗。
本当、こういうところがかわいいんだよな。
「ち、千紗、ちょっと下に行って来るです!」
どたばたどたばたっ!
あらら、照れちゃって。
まあ……千紗らしくていいか。
でも、俺のの素直な気持ち、ちゃんと伝えられたよな。
「さて、と」
俺はテーブルに向き直ると、あとがきのページを取り出してGペンであとがきの最後に一文を付け加えた。
今回の、もう一つのお礼。
そして……千紗と俺との第一歩。
二人の、初めての作品になるんだ。
" Special Thanks to Chisa Tsukamoto "
初出 2001.01.08 「台車でGo!!」所収